胡蝶蘭

 

 

 

 

 

たとえどんなことが起きようとも、

     私が貴方を忘れることなんてありえないでしょう。

 

 

たとえどんなに時が流れても、

     私がこれだけ愛したのは貴方ただ一人。

 

 

 

 

 

ねえ、貴方は今何処にいますか?

 

 

この蒼くて大きくて、それでいてとても物悲しい空の下で笑って生きていますか?

 

 

私は、もう一人ではありません。

 

 

寂しい思いをすることも、誰かを愛することもなくなりました。

 

 

満たされているようで、どこかぽっかりと大きな穴が開いている、そんな状態のまま。

 

 

私はいまだに貴方の面影をこの世界の何処かで捜し求めているのかもしれません。

 

 

 

 

 

愛とは、とても愚かで、とても悲しい。

     あの日から私の全ては変わっていった。

 

 

恋とは、とても辛くて、とても切ない。

     あの日の貴方の苦痛に歪んだ顔が、今もまだ私の中から消えてはくれない。

 

 

 

 

 

それでもなお、私は貴方を愛し続けます――――。

 

 

 

 

 

「――――…なあー、」

「んーどうしたのジロちゃん。」

「高校三年間って思ったより早えなぁー。」

 

 

 

空を二人眺めながら、どうでもいいことをよく話す。

今日もまた、いつもと大差ない真昼の空を見上げながら私達は屋上のコンクリートに足を投げ出していた。

午後の授業が面倒だなんて考えていたら、隣で空を見上げながらジロちゃんがポソリとそんな一言を漏らした。

 

 

 

とは高校からだけど、何だろー、ずっと一緒だったみたいだC−。」

「へへ、高校生活はそうだね、中学の時より早く感じたなー。」

「とか言って、俺達まだ三年生になったばっかだけど。うん、最後にと同じクラスになれてよかった!」

 

 

 

へへへと嬉しそうに笑うジロちゃんを見ていたら何だかとっても心が温かくなる。

たまに突然意味のわからないことを言い出す時もあるけど、

私はこんなジロちゃんと一緒にいる時間が大好きだ。

私のことをよく考えてくれていて、自分のことのように感じてくれる。

そう、例えばこんなふうに。

 

 

 

は、跡部のこと好き?」

 

 

 

跡部景吾、現在の私の彼氏。

とってもナルシストで、俺様で、どうしようもない人だけど、とっても頼りになる

あの日から私の大切で、掛け替えのない人。

彼がいるから、私は高校生活を笑って過ごせたんだと思う。

彼は、ある意味私の命の恩人だ。

 

 

 

「うん、大好き。」

 

 

 

ん〜っと大きく伸びをしてゴロリと寝転がる。

スカートだけど誰も見やしないから気にすることなく大きく股を開いたら

ジロちゃんに「パンツパンツパンツパンツ」と恥ずかしげもなく連呼された。

同じようにしてジロちゃんも私の隣にゴロリと寝転がると、真っ直ぐ空を見上げて質問を続けた。

 

 

 

「…でも、それって一番じゃないじゃん?」

 

 

 

ジロちゃんは私のことは何だって知っている。

たぶんこの氷帝学園の中で一番”私”を知ってる人なんだと思う。

私が唯一弱音を吐いた、たった一人の全ての事情を知る人物。

だから嘘はつかないし、ついたって意味がない。

その大きくて濁りを知らない瞳で見つめられたら、私はもう何も考えられなくなる。

 

 

 

「だったら、どうなのよ。でも、跡部は私の中ですっごく大切な人だし。」

「それは俺だって判ってるって。ただ、もうそろそろかなって…そう思っただけだC−…」

「そろそろって、何の話?」

 

 

 

自分でも声のトーンが段々と下がってきてるのに気づいてた。

焦りを感じているわけでもないし、動揺しているわけでもない。

ただこの先に続く彼の言葉が、私は自然と判ってしまっているから、聞きたくなかっただけ。

 

 

 

「丸井君、会ってみたら?」

 

 

 

全身の血の気が冷え切った。

” ま る い く ん あ っ て み た ら ? ”

ジロちゃんの声が頭の中を何度もリピートしてはぐるぐると廻り続ける。

最後は何時ぐらいに聞いただろうその名前。

自分ではもう何年も口にしていない、大好きだった彼の名前。

あの日の彼の笑顔が、一瞬だけ頭の中を過ぎった。

 

 

 

「ねえジロちゃん、私、もう忘れたんだよ。だから会うも何も、もうないんだよ。」

「ダメだよ、約束と違うじゃん。会うのならそろそろ潮時だと俺は思うんだけどなあ。」

「だから!もういいんだって!!ジロちゃん!!」

 

 

 

ガバッと起き上がってジロちゃんの上に跨り、肩を掴む。

そんな私とは正反対に冷静なジロちゃんは、真っ直ぐ強い眼差しで揺らぐことのない視線を私に向けた。

そっと片手を伸ばし、頬に触れる。

 

 

 

「俺は跡部が大好き。」

 

 

 

そんなことは判ってる。

ジロちゃんはいつも跡部のテニスを楽しそうに見てて、

どんなに跡部に怒られたってめげずに跡部の後ろをついて行っている。

 

 

 

のことも、大好き。」

 

 

 

今度は両頬を手で添えてそのまま私のことを引っ張った。

目の前にジロちゃんの大きな目、鼻、口。

微かに触れ合う鼻がくすぐったいうえに、おデコとおデコをくっ付けて、

 

 

 

「だから俺は二人が付き合う以上、本当に好き合ってくれてなくちゃヤなの。」

 

 

 

キーンコーンカーンコーン、タイミングがいいのか悪いのか、間抜けなチャイムが鳴り響く。

次の授業はおサボり決定だな、とジロちゃんからそっと離れてまた隣にゴロリと寝転がった。

 

 

 

「何言ってんのジロちゃんのくせに…、」

「だって諦めつかないじゃん。」

「…あき、らめ?」

 

 

 

視線だけをジロちゃんに向けると、ジロちゃんはとっくに私の方を向いていて、

だからその瞬間にバッチリと目が合って、私は動揺で数回目を瞬いた。

 

 

 

「好き同士がくっ付いてんなら諦めつくけど、好き同士じゃないのに付き合われたら…

に片思いしてる人とか、どうなんの?跡部に片思いしてる人とか、諦めつかないじゃん。」

「…しーらなーい。」

 

 

 

ぷいっと顔を背けてフェンスの向こうに広がる空を見る。

何処までも果てしなく続く空。

いつだったか、彼ともこんな風に真昼の屋上で、蒼く広がった空の下、笑い合った記憶がある。

私は今もその胸の時めきを、忘れてはいない。

 

 

 

「俺、好きなら一緒にいなくちゃいけないと思うんだ。」

「ねえジロ、」

「好きなのに、がここにいるのはやっぱり可笑しいよ!!」

 

 

 

今度はジロちゃんがガバリと起き上がって私の上へと跨った。

ジロちゃんで隠れた太陽。

陰になって表情はあまり見えなかったけど、きっと泣きそうな顔をしてるに違いない。

それでも私は彼の提案に首を縦に振るわけにはいかないんだ。

だって、彼はもう…―――――

 

 

 

「捨てられた身じゃ、どうすることも、できないんだよ、ジロちゃん。」

 

 

 

目尻を伝って落ちる涙。

もう、あんな思いしたくないから、だから私は逃げた。

逃げて、幸せかどうかも判らない、そんな道を選んだ。

一人になることがどうしても怖くて、彼がいなくても生きていける道を選んでしまったんだ。

 

 

 

「……、」

 

 

 

蒼く輝く空の下。

時が流れてしまった今でも、私は貴方から離れられはしないのです。

 

 

 

 

 

- - -

 

 

 

 

 

「あーとべ、」

 

 

 

部活が始まるちょっと前。

珍しくジローがジャージに着替えて俺のことを待ち伏せするように靴箱の前で立っていた。

 

 

 

「何だ、用件がないならさっさとコート行け。」

「うーん、用件ならちゃんとアルってば。」

 

 

 

へらへら笑いながら俺の腕に絡みつくジローに舌打ちをかまして

特に引き剥がしたりせずに、俺は話を聞きながら部室へと向かうため歩き出す。

 

 

 

「あのさ、お願いがあるんだけど、聞いてくんね?」

「モノによるな。」

 

 

 

ジローの言うことを聞くか聞かないかなんて、そんなの内容を聞かなくちゃ頷けるわけがねえ。

コイツの場合とんでもないことを言い出しかねない。そんなことを考えながら話半分に聞いていると、

こいつの口から珍しくも、何を考えているのかよくわからないお願いを聞かされた。

 

 

 

「…どういうつもりだ?」

「へへ、うん。ただね、もうそろそろ潮時なんだって、そう思ったから。」

「潮時、だと?」

 

 

 

うん、と頷くジローを怪訝の眼差しで見つめていると、

いつの間にかもう部室の前まで来ていて、ちょうど部室を出たところだったのか、俺達に気づいた宍戸が

ジローが来てるなんて珍しいと驚いた様子で声を掛けて一足先にコートへと向かった。

その宍戸の背中を見つめながら、まだ少し疑問の残る俺はたった一言、

 

 

 

「今日の部活中、考えといてやるよ。」

 

 

 

そう言ってジローの頭をポンポンと叩いて部室へと入って行った。

するとジローの嬉しそうな「よっしゃ!」という声がドア越しに聞こえてきて、

俺も可笑しくなって少しだけ口許に笑みを浮かべてさっさとジャージに着替え始めた。

 

 

 

 

 

部活も終わり、俺は職員室に立ち寄る。

そこでの用を済ませると、速足で部室へと向かった。

部室のソファーでを待たせてある、急がないと。

俺の頭の中はのことしかなくて、アイツに寂しい思いをさせてはならないと、

ただそれだけを考えてポツンと明かりが点っている部室へと向かった。

 

 

 

、待たせたな。」

 

 

 

部室ではまだ向日と忍足が残っていて何やらと三人で談笑していたようだった。

俺が入ってきたことに気が付くと、は涙目になりながら「お疲れ。」と言って微笑んだ。

 

 

 

「何の話してやがったんだ。涙出てるぜ。」

「え?えーっとね、侑士が、」

「あー言ったらあかんで!」

 

 

 

が何か言おうとしたのを遮るように慌てて忍足が割って入る。

うぜえと思いながら俺がに目配せすると、は苦笑いだけを零して後は何も言わなかった。

忍足の後ろのソファーで寛いでいた向日が「侑士が跡部の愚痴をに聞かせてた」って言うから

とりあえず視線だけで忍足に明日覚えておけよ、と伝えておくと忍足は慌てて向日に

「何で言うねんお前もやろ!」と向日も道連れにしようと叫んでいた。

何やらそれには向日も焦って弁解をしていたみたいだが、

ま、とりあえずこの二人は明日の朝練の時にでもみっちりシゴいておくとするか。

 

 

 

「で、跡部どうやったん?OKとれた?」

「ああ、丁度予定が空いていたらしい。」

「マジで!?じゃあどっちのコートですんの?もちろん氷帝だよな!?」

 

 

 

上手い事話を逸らした忍足の質問に、わざわざ俺も答えてやる。

その返答にパッと目を輝かせる向日を背に俺はさっさと着替え始める。

そのまま「ああそうだ」と答えてやればさらに向日が喜んだ。

なんとも、遠征は何かと不便だからだそうだ。

確かにいちいち現地まで全員が固まって電車やバスを使って行かなきゃならないとなると

俺的にもあまり好ましいとは思えない。

それなら使い慣れたコートで、普段どおり集合してできた方が幾分かマシだ。

 

 

 

「おい、。」

「んーなにー?」

 

 

 

いつものように机の上に足を乗せて携帯を弄る

あれほど行儀が悪いからやめろと言ってんのに、言う事を聞かねえなコイツも。

俺はカッターシャツに腕を通しながらそんなを一目見て、

 

 

 

「お前、明後日暇だろ。試合見に来い。」

「え、」

 

 

 

驚いたように目を見開くに、絶対首を横に振れないよう睨みつけて威圧感を掛けた。

するとは困ったように眉を下げて「えー」と不満の声を漏らした。

 

 

 

「絶対だ。たまには見に来い、いいな。」

 

 

 

うーん、といまだ呻り続けるを無視して俺はネクタイを締める。

忍足と向日から何ともいえない視線を向けられたが俺はそれすらも無視を決め込み、

ただ明後日のことを思いながらロッカーの扉を音を立てて閉めた。

 

 

俺は、何も訊かされていない。

の過去も、自身に何があったのかも。

ただ中学の頃監督だった榊監督にのことを頼まれ、面倒を見てきた。

初めは渋々だったが、魂が抜けきったように上の空の彼女が見ていられなくて、

ただその整った可愛い顔を笑わせてみたくて、俺はいつの間にかを自分の意志で受け入れた。

 

 

 

「…潮時、か。」

 

 

 

何か言った?と不思議そうにが尋ねてきたので俺はいや、何もないとだけ返事を返した。

するとがぎゅっと俺の腕にしがみ付いてきた、帰り道。

中学の頃のように迎えの車もなく、俺とはただ二人きりで帰路を歩いた。

 

 

コイツの心の中にはいつだって俺じゃない誰かがいることはわかっている。

ソイツにしかを救ってやれないことだってわかっている。

だけど、コイツがここまで衰弱してしまった理由がソイツにあることだって俺は知っている。

だから、今はただ真実が知りたい。

コイツと、その想い人との間に何があったのか。

俺には知る権利があると、そう思う。

 

 

俺はコイツが笑っていてくれるなら俺は何だってしてやれると、

この時はそう思って疑わなかった。

 

 

 

 

 

- - -

 

 

 

 

 

テニスが嫌いになった訳ではない。

むしろ大好きだ。

ただ、怖いだけ。

彼との思い出がいっぱい詰まったそのスポーツは、私にとっては残酷なものでしかない。

 

 

一生懸命覚えたテニスのルールも、今となっては曖昧で、

あの黄色いボールを手に取ることももうなくなった。

勝ったあとのあの自信満々な笑顔も、お疲れと言いながら渡すタオルも、

私の中ではもう記憶の片隅に追いやられた小さな思い出。

 

 

きっと、もうほとんど忘れてしまっているはずだ。

だって時はもうあの日からずいぶんと流れているんだから。

 

 

 

「来ちゃった…」

 

 

 

わーわー朝から騒がしいなあとちょっぴり感心しながらもコソコソ人を掻き分けお目当てのコートを目指す。

何を思ってか、いきなり跡部が試合を見に来いなんて言うものだから、

正直びっくりして何があるのか内心ドキドキして昨日の夜なんて眠れなかった。

今までは私があまりテニスを見たくないと言っていたから無理して見に来なくていいとか言ってたくせに。

どういった心境の変化なのだろうと疑問に思いつつ一番ギャラリーの多いコートへと足を運んだ。

 

 

 

(だって、一番ギャラリーが多いコートが跡部のコートって決まってるもんねー)

 

 

 

自分の彼氏が校内でも一番モテてる男だからって、半分心の中で惚気を零し、

暢気に鼻歌なんかを歌いながらそのコートへと近付く。

徐々にコートに近付くにつれて、ギャラリーの人数も増えていて、

突如ワッと沸いた歓声に足を止める。

 

 

 

『ゲームセットウォンバイ!立海、丸井・ジャッカルペア6−4!!』

 

 

 

審判の声が風に乗って耳に入ってくる。

どくん

波打つ心臓に、握り締める汗。

 

 

騒ぎ立てるギャラリーの隙間から僅かに見えた赤い髪。

懐かしい、彼の笑顔。

 

 

 

『ぶっ細工な泣き顔見せんなよなー。』

 

 

 

耳元を掠める記憶の中の彼の声。

真昼の太陽の下で、初めて笑って話したあの日の私達。

 

 

ねえ、貴方は今何処でどうしていますか?

 

 

よくそんなことを考えた、そう、ついさっきも考えてた。

彼のあの勝気な笑顔も、二度と目にすることはないと、心のどこかで諦めていた。

 

 

 

『ただ、もうそろそろかなって…そう思っただけだC−…』

     『丸井君、会ってみたら?』

          『会うのならそろそろ潮時だと俺は思うんだけどなあ。』

 

 

 

「――――…っちょ、大丈夫!?」

 

 

 

誰かがそう叫んだのが聞こえて、

私はすぐに意識を手放した。

 

 

 

ざわざわと、騒ぎ立てる声が煩い。

もう何も言わないで、何も、望まないで。

私は自分でも訳がわからないの。

ただ、愛していただけなのに、

ただ、一人が怖かっただけなのに、

 

 

 

ふと、頭に過ぎる記憶の片隅で、あの日の彼が笑ってた。

 

 

 

『あ、俺丸井ブン太。』

 

 

 

私はまだ、彼の笑顔を忘れてなどいなかったんだ。

 

 

 

 

 

― あの頃の私が最も欲しかったもの。

     ”ただいま”と言えば”お帰り”と言ってくれる存在。

          私は、ただ寂しかっただけ ―