胡蝶蘭

 

 

 

 

 

、別れよ。」

 

 

 

私の学校には超人気な部活がある。

それは立海大附属中テニス部なんだけど、何故人気かというと、

中学テニス界で最も強いとされている学校で、しかもそのプレイヤー達がカッコイイときてる。

ま、そうなれば自然とおモテになるわけなんだけど、裏ではファンクラブとかあるらしい。

それはちょっといきすぎなんじゃないかって私なんかは思うわけで、

それを友達なんかに言うと「は彼氏がいるから…」と必ず決まってそう言われる。

私自身も大好きでカッコイイ野球部の彼氏がいるからテニス部の彼らなんてちっとも気にならなかった。

絶対私の彼氏の方が彼らよりうんと魅力的で優しくて素敵で野球ができてそれで……おおっと、惚気が。

 

 

確かにテニス部の彼らだって顔は物凄くいい。

それにテニスだって全国レベルというと文句なしでいい男だと思う。

だけどそうお得な特典がついているとやはり問題はここにある。

何といっても彼らは女たらしで有名。

次々と向こうからやってくる女はとっかえひっかえなんて、若干神経を疑うところがある。

私はそんな彼らを遠い目で見ながら、今日と言う日を過ごしてきたんだ。

そう、今日と言う日までは。

 

 

 

「え、ちょ、何いきなり…」

「俺さ、お前といると疲れるんだよ。」

「……つ、疲れるんですか?」

「そう。だってほら…」

 

 

 

昼休み、いきなり屋上に呼び出されたと思ったら彼氏から告げられた別れの言葉。

思い返せば最近、妙に距離が空いているなとは思っていたけど、

まさかこうも別れを切り出されるとは思っても見なかった。

今もなお彼氏の口から告げられる別れの理由はたぶんあのこと。

 

 

仕方ないとはわかっているんだけど、どうも面と向かって言われると悲しいものがある。

いつだって寂しいのは私の勝手。

両親がいなくて家に帰っても一人な私は寂しいと感じたらすぐに彼氏にでも友達にでも連絡を取ってしまう。

友達は笑ってバカ話なんかに付き合ってくれるけど、彼氏は違う。

部活で疲れて寝たい時だって私の話に付き合わなくちゃいけなくて、疲れが溜まるのも理解できる。

だけど、ダメだってわかっているけど、私は寂しさを誰かの存在で補わなくちゃ生きていけないんだ。

 

 

 

「バイト、頑張って。じゃ、俺もう行くわ。」

「…うん、今までありがと…」

 

 

 

付き合ってる時もよくしてくれた、頭を優しく撫でるように叩く彼の私より一回り大きな手が

涙を堪えて俯く私の頭を二三回優しく叩いて去って行った。

今日もこの後、年を誤魔化して働いている家の近くのケーキ屋さんのバイトがある。

よく彼氏が部活の帰りにこっそり買いに来てくれた、ケーキ屋さん。

今日からはもう買いに来てくれないんだと思うと、誰もいなくなった屋上で一人、大声を上げて泣きたくなった。

 

 

私は今日からまた一人、一人ぼっちで寂しさを耐えなくてはいけない。

誰かの手に縋りたい気持ちを堪えて昼休み終了のチャイムが鳴り響く屋上でわんわん泣いた。

 

 

悔しい、悔しい。

好きなのに、好きなのに、別れを告げられた。

まだ側にいてほしいのに、彼は私の元から離れていってしまった。

 

 

 

「ちっくしょー誰がお前なんかっ」

「ぶっ細工な泣き顔見せんなよなー。」

 

 

 

せっかく人が気持ちよく寝てたのに、なんつー泣き声上げてんだお前。なんていう声が

鼻を啜って涙を拭っていた私のすぐ頭の上から降ってきた。

驚いて顔を上げると頭の上に上履きが一足落ちてきて見事に私の頭に跳ね返って地面に転がった。

その転がった上履きを拾うと、踏み潰された踵の部分に乱雑に書き殴ったような”ブン太”という文字。

ブン太と言えばこの学校に一人しかいない珍しい名前。

私は自分が泣いていたことも忘れて上履きを持ったまま給水タンクの上を見上げた。

 

 

 

「わり、落とすつもりなかったんだけど…それ投げて。」

「…はい。」

「おおっと、何処投げてんだよお前は!」

 

 

 

落ちるとこだっただろい!と言いながらもちゃんとキャッチできるあたりやはりテニス部レギュラーなだけある。

彼、丸井ブン太は「でもやっぱ俺って天才!」なんて言って喜びながら給水タンクの上から下りてきた。

私が黙ってその様子を見ていると、よっと声を上げて地面に降り立った丸井ブン太君が

ニヤリと口許に笑みを浮かべて私の横に立って頭を撫でた。

 

 

 

「ほら、泣くなってこれやるから。」

「…どうも、ありがと…っ」

「彼氏に振られたくらいでめそめそすんなよ。せっかく可愛い顔してんのに泣き顔最悪だぜアンタ。」

 

 

 

慰めてるのか貶してるのかわかんない言葉を投げかけて彼は私に一枚のガムを差し出した。

包み紙を開けなくてもほのかに香るグリーンアップルの香りが鼻をくすぐる。

でもなぜか今彼が噛んでいるガムからはシトラスオレンジの香りがかおってきて

何だか匂いが混ざって結局いい匂いなのか何なのかわからなくなってしまった。

 

 

 

「あーせっかく今日いい天気だってのにお前見たらテンション下がった!」

「っそれは、ご迷惑お掛けしましたね。」

 

 

 

ギロッと睨みつけてやるとおー怖ぇーなんて暢気に笑いながら両腕を伸ばして欠伸する丸井ブン太。

今日は本当にいい天気で、太陽が私達の真上で燦々と輝いていた。

すると突然何か思い出したように丸井ブン太はそうだ!と叫びを上げる。

 

 

 

「アンタ、あれだ、ケーキ屋だ。」

「え?」

 

 

 

私が何をいきなりって顔をすると丸井ブン太は「俺アンタ見たことある。」と言って

シトラスオレンジの香りを漂わせたガムをプクーッと大きく膨らませた。

 

 

 

「何度かケーキ屋でアンタのこと見たことあるんだよなー。何、アンタ年誤魔化してんの?」

「…う、え、ま、まあ…その、うん…」

「ハハッ動揺しすぎっ!」

 

 

 

ケタケタ笑ってどかりと立膝を突いてその場に座る。

すると丸井ブン太が目で私に隣に座れと言ってきたので仕方なく私もその場に座った。

求人誌で調べたら年齢不問と書いてあったケーキ屋で採用してもらい、何とか数ヶ月働いてはいるものの、

朝は新聞配達、昼は学校、夕方はケーキ屋というと疲れもドッと溜まってくるもので、

学校ではもうほとんどの時間居眠りしていると言っても過言じゃない。

だけど、両親がいない私はこうでもしないと生きていけないんだ。

いくら親戚のオジサンが学費を払ってくれたり、一緒に住んでなくても親代わりで面倒を見てくれていたり、

立海の近くだからって買ってくれたマンションに住ませてもらっているとしても、大体の生活費は自分で出したい。

迷惑なんて、かけられない。

 

 

 

「大丈夫だって、誰にも言わねぇし。」

「…本当に?」

「おう、その代わり今度行ったらサービスしろよ。俺たまにあそこ行くから。」

「う、まあケーキ一個くらいなら…オマケするよ。」

「マジで!よっしゃー!」

 

 

 

嬉しそうに目をキラキラと輝かせてガッツポーズを決める丸井ブン太に

私は少し胸を時めかせ、これは何かの勘違いだと首を横に振った。

きっと、傷心した心が、また誰かを求めているだけ。

側にいてくれる人を、捜しているだけ。

 

 

 

「あ、俺丸井ブン太。」

「え、うん…知ってる。有名だもんね。」

「まあな!俺ほど天才的ならこの学校で知らねえ奴なんてそういねえ!」

 

 

 

どうしてこうもナルシスト、いや、自信過剰でいられるのだろうか。

ちょっと疑問に思ったけれど確かに顔もいいしあれだけのテニスの腕前があれば

自然とそうなってしまうのもしょうがないのかもしれない。

そういう人間もたまには近くにいてもいいかな、と思うと段々目の前の彼が可笑しく思えてきて

思わず笑みが零れて堪えることもできずに笑ってしまった。

それに気づいた丸井ブン太がムッとしたような顔をして

 

 

 

「何笑ってんだよ…!」

「いや、アンタ…いいキャラしてるなって思って。うん、面白いね。」

 

 

 

次にちょっとだけ頬を染めるからまた可笑しくなって笑ってしまった。

さっきまで泣いてたのに変な奴って丸井ブン太も笑い出して

結局次の授業終了のチャイムが鳴るまでずっと二人でどうでもいいことを話して笑ってた。

 

 

きっと、恋してしまったんだとちゃんと自覚したのはそのあと。

廊下やテニスコートで丸井ブン太を見かけるたびに目で追ってしまう日々が私の中で続いた。

その度胸は激しく時めいて、あの太陽の下での彼の眩しい笑顔が頭から離れなかった。

 

 

ああ、私は彼が好きなんだ。

彼を好きになってしまった。

 

 

今までは全く見向きもしなかったっていうのに、完璧に周りで騒ぐ女友達と同じ状態に陥ってしまった私は

丸井ブン太に心を奪われた一人の女に成り下がってしまった。

不覚、そう思ってもやっぱり恋してしまったからにはどうしようもなくて、

ただ今丸井ブン太の彼女だという女の子が羨ましくてしょうがなかった。

 

 

あの日から一ヶ月、一人になった私は寂しさを堪えながらも、難なく過ごしてきた。

きっと、全てが狂い始めたとしたなら、この時だったと思う。

 

 

ある日、丸井ブン太は、彼女と別れたという噂が立った。

女をとっかえひっかえで噂のテニス部。

今回、一ヵ月半続いた彼女と別れたらしい丸井ブン太は

その日から待ってましたと言わんばかりの勢いで告白の嵐となっていた。

 

 

その中の一人となった私もまた、その日の放課後、

部活に行こうとしていた丸井ブン太を呼び止めて中庭へと連れ出した。

 

 

 

「丸井ブン太くん、私とお付き合いしてください!」

 

 

 

結構勇気がいった。

ドキドキする胸を抑えながら何とか震える声を我慢して叫んだ。

いつもは告白される側だった私が初めて人に告白をしたんだ、当然と言えば当然だ。

なかなか返事がなくて、不思議に思った私は思わず顔を上げた。

すると困った表情を浮かべながら頬を掻いていた丸井ブン太がちょっとビックリしたような表情を見せた。

 

 

 

「あ、お前あん時の…」

 

 

 

今顔を見て漸くあの日の私だったのだと気づいたのか、目を真ん丸くしてまたすぐに困った顔に戻った。

 

 

 

「アンタ結構好みなんだけどなーワリ、俺暫く彼女作んないから。」

 

 

 

じゃ俺部活行くから、とさっさと歩き出してしまった丸井ブン太の背中を見つめながら

何が起こったかいまいち理解できてなくてその場に呆然と立ち尽くしたままの私は何も言えなかった。

頭の中ではずっと今言われた丸井ブン太の台詞がグルグルと回り続けている。

いい加減にしてくれってくらいしつこく何度も何度も。

段々と状況が理解できてきた私はボーっとした頭を勢いよく左右に振って頬を叩いた。

 

 

 

「泣くな!泣くな!!」

 

 

 

熱くてヒリヒリする、そんな頬の痛みを感じながら溢れてきていた涙を堪える。

じゃりっと砂をにじる音が聞こえて歪んだ視界のまま顔を上げると、

 

 

 

「へへ、覗き見じゃないんで、そこんとこ勘違いしないよーにお願いしますよセンパイ?」

 

 

 

偶然ッスよ偶然、と憎たらしい笑みを浮かべて丸井ブン太が歩いていった方へと姿を消した一人の男。

あれは確か丸井ブン太の後輩、切原赤也だったような気がする。

見られていたことに少しカッと頬を赤く染めて、泣くことを堪えていたはずの私は、

やっぱりフラれたという事実が悲しくて、今度こそ誰にも見られないように少しだけ泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お疲れ様でーす!」

 

 

 

店の中に向かってそう叫ぶと、中から何人かの「お疲れ!」という声が聞こえて

今日の売れ残りのケーキを片手にバイト先を出た。

いやー、今日の売れ残りが私の大好きなイチゴショートで良かった!と、放課後の出来事も忘れて

鼻歌混じりに帰路を歩いていると、家へ帰るのに最短の近道である公園の前へと差し掛かった。

 

 

 

(よし、今は気分がいいからここ通って帰ろっと。)

 

 

 

もう夜の八時を過ぎていて公園の街灯に照らされたひと気の全くない公園の中を通る。

ちょっと怖いな、と思いながらも足を進めていると、出口に近付くにつれて子どもの声が聞こえてくる。

こんな時間に子どもを遊ばせて親は何をしているんだ。

ふと、砂場辺りに二人分の子どもの影が見えて、

好奇心旺盛な私はその影に気づかれないようにゆっくりと近付いた。

 

 

 

「早くしろよ帰るぞ!ほら、立てよ!」

「やだ、まだここにいる!」

「こんなところで待ってたって兄ちゃんは迎えに来ないって!ほら帰るぞ!」

 

 

 

やだー!と泣きじゃくる小さな男の子の手を少し大きめの男の子が

無理矢理引っ張って砂場から引き摺り出そうとしている。

暗くてよくは見えないけれど、どうやら駄々を捏ねている小さな男の子は

お兄ちゃんが迎えに来てくれるまで家へ帰りたくないようだ。

そんな兄弟(似ているからたぶんそうだろう)を歩みを止めてぼーっと見ていると、漸く弟を

引き摺り出すことに成功したらしいお兄ちゃんが力一杯踏ん張って出口に向かって歩き始めた。

 

 

 

(あれ、でもこの子…見覚えが…)

 

「ヤダ!にいちゃんが迎えに来てくれるまで帰らない!」

 

 

 

そう叫ぶや否や、弟は勢いよく私の足へとしがみ付いて来る。

いきなりのことに私が驚いていると、お兄ちゃんの方が「こらいい加減にしろよ!」と弟の頭を叩いた。

こんな夜遅くの公園で繰り広げられる兄弟の喧嘩を私はどうしたら良いものか、

真剣に困り果てて仕方なく小さな弟のことをひょいっと抱き上げた。

 

 

 

「よしよし、泣くな泣くな。」

「っ、に、ぃちゃっ…ヒック…迎えにきてっ、よっ、…」

「だから兄ちゃんは暫く部活で忙しくなるから無理だって言ってるだろ!降りろ!」

「まあまあお兄ちゃん、私が家まで送ってあげるからそう怒らないで。」

 

 

 

え、でも…と言葉を濁すお兄ちゃんも、私の腕の中で泣きじゃくる弟を見兼ねて渋々頷いた。

せっかく今日は早めにバイトを切り上げて見たいテレビを楽しみに帰ったというのに、

ちょっと災難に巻き込まれたなと思ったが、こんな小さな子どもを放って行くわけにもいかないので

仕方なく弟を抱きかかえたまま出口へと歩き出そうとしたその時、

 

 

 

「貫太!慶太!」

「あ、にいちゃっ!!」

 

 

 

出口のところに、この兄弟の名前を叫ぶ誰かの姿があった。

この兄弟は貫太慶太というのか、どっちがどっちの名前なのだろうとか考えていると、

腕の中の弟が慌てて私から降りようとしたのでそっと地面に降ろしてやると、

小さな足をパタパタと忙しく動かして出口に向かって走り出して行った。

続いてお兄ちゃんの方も弟ほどではないが駆け足でお兄ちゃんと呼ばれた人物の方へと駆けて行く。

一人取り残された私は、嵐のように去って行く二人の背中を眺めながら何となく歩いてその後を追った。

 

 

 

「お前、5時になったらちゃんと家帰れって言っただろい、何してんだこんな時間まで。」

「兄ちゃんコイツ兄ちゃんが迎えに来るまで帰らないとか言って…もう俺疲れた!」

「おーサンキュ慶太。貫太、俺今日から部活に本腰入れていかなきゃいけねぇから

お前のこと迎えにいけないって言っただろい?頼むから世話掛けさせんなよ…俺くたくたなんだから。」

 

 

 

段々と兄弟の会話が耳に入ってくる距離まで近付いた時、私の足はピタリと止まった。

出口付近に立ってある街灯に照らされた赤い髪、その声。

今の私の顔はこれでもかってくらい引き攣っているのかもしれない。

そんな私の存在に気づいたのか、ふっと顔を上げてコチラを見た”お兄ちゃん”が

途端に「あ、」と声を漏らして目を見開いた。

 

 

 

「あ、え、………失礼しましっ」

「ちょっと待てって。」

 

 

 

顔が完全に真っ青になったところで慌てて私は家に帰ろうと、

三人の横を通り抜けようとしたが、腕をがっしりと掴まれた。

 

 

 

「お前今日の奴じゃん。何してんの?」

「…や、こんばんは丸井ブン太くん偶然デスネ。」

「何で片言なんだよお前…」

 

 

 

もう泣き止んでいる一番下の弟を抱きかかえたまま

空いている方の片手で私の腕を掴んで離してはくれない丸井ブン太。

何といっても気まずいこの雰囲気をどうしてくれようと、

内心バックバクの私の心臓が彼に聞こえてはいないか心配をしていると、

 

 

 

「おねえちゃん、さっきはありがと。」

 

 

 

え、と私が目を見開くと、丸井ブン太に抱きかかえられていた弟がニッコリと笑ってくれた。

 

 

 

「コイツに何したんお前。」

「え、いや…ただ、こんな遅くの公園で泣いてたから家まで送ってあげようと…」

「ふーんサンキュ、悪かったな。」

 

 

 

あっけらかんとお礼を言う丸井ブン太。

今日、というかつい先ほど振ったばかりの女によくもまあそれほどまで普通に接することができるものだと、

やはり噂に聞いていた通り女タラシで超マイペースな神経をお持ちになった人間なんだと妙に納得してしまった。

 

 

 

「うっし、貫太、慶太、お前ら先に帰ってろ。俺コイツ送ってくから。」

 

 

 

私が驚いて訊き返す間もなく、弟達は頷く。

 

 

 

「うん、早く帰ってきてね。行くぞ貫太。」

「…はあい。おにいちゃんすぐに帰ってきてね。おねえちゃんもバイバイ。」

 

 

 

おう任しとけ。とにこやかに返事を返すと、仲良く手を繋いで帰っていく兄弟の姿が見えなくなるまで

見つめ、丸井ブン太は振り返って自分の自転車の後部座席をぽんぽんと叩いた。

意味がわからなくて目を真ん丸くしている私を見て、丸井ブン太はちょっと眉を顰めた。

 

 

 

「何してんだよ、乗らねえの?」

「え、だって…」

「お前だって女だし危ねえだろい。送ってってやるっつってんの。早く乗れよ。」

「……でも、重いよ?」

「そんくらい任せろい!」

 

 

 

胸を張ってウインクする丸井ブン太に、女の子としてはちょっと否定してほしかったなと

若干肩を落としながらも渋々「ありがと」と呟いて後部座席に跨った。

それを確認して丸井ブン太もサドルに跨りペダルに足を掛ける。

 

 

 

「しっかりつかまっとけよ。落ちても文句なしな。」

「……安全運転でお願いします。」

 

 

 

大丈夫だって心配無用!と言い終わらないうちに地面を蹴ってペダルを漕ぎ出す。

向かい風に前髪を靡かせながら、私は恥ずかしいのでそっと彼の服を掴んだ。

家は何処だと聞かれたので、適当な目印を伝えると、

彼は近くなったらまた詳しく教えろと言ってスピードを上げた。

 

 

 

「なーその箱の中身ってもしかしなくともケーキ?」

「うん、さっきまでバイトだったから、その残り。」

「マジ!?ケーキ屋って残ったケーキくれんの!?」

「うーん、私のところは、そうかな。くれないところもあると思うけど…」

 

 

 

顔は見えないけど、きっと今の彼は目を輝かせているんだと思う。

だって声が途轍もなく嬉しそうだから。

こんな会話をしていると、今日私が振られたなんて事実がまるで夢のようで、

それほど話したこともないのに、ずっと一緒にいたような感覚に襲われる。

 

 

 

「そっかーいいなー。俺もケーキ屋とかでバイトしてえな。」

「ケーキ貰うことが目当てならやめといた方がいいよ。ここのケーキ屋、超しんどいもん。」

「マジで?ただ立ってるだけでいいじゃねえの?」

「まっさか、ただケーキ売ってればいいってもんじゃないの。バカにしないでよ。」

「へえそうなんだ。じゃあ俺はやっぱ客のままでいいや。」

 

 

 

風に乗って彼の噛んでいるガムの香りが、彼が何かを話すたびに香ってくる。

その匂いにさらに胸をドキドキさせながらも何とか平常心を保って会話を続ける。

結構これって…拷問に近いよね。

振られた私の立場ってものも是非考えてほしい。

 

 

 

「あ、ここ右に曲がってあのコンビニの横に立ってるマンションなの。」

「了解。でっけえ所に住んでんだな。いいねえー。」

「……そう、かな。」

 

 

 

複雑な気分。

きっと今の私は上手く笑えていない。

自転車がブレーキの音を立てて私の住むマンションの前で止まり、私は自転車からおりた。

 

 

 

「よっし、ちゃんと送り届けたからな。」

「うんありがと。……あ、そだ。はいコレ。」

「え?」

 

 

 

自転車に跨ったまま笑う丸井ブン太に差し出した白い箱。

中身は私の楽しみにしていたイチゴショート3つ。

きっとコレが彼にとって一番のお礼になると思った私はそれを躊躇いもなく彼に渡した。

 

 

 

「お礼にコレあげる。3つあるからさっきの弟と食べて。」

「……マジで、くれんの?」

「うん送ってくれたし…今度サービスするって言ってたけどいつになるかわかんないし。」

 

 

 

目を真ん丸く見開いて箱を凝視する丸井ブン太の顔が見る見るうちに満面の笑みに変わる。

 

 

 

「サンキュッ!俺部活で疲れてたからマジ嬉しいんだけど!ありがとな!!」

 

 

 

ドキン

時めく胸の鼓動を全身に感じながら、私は「じゃあまたね。」と言ってマンションの中へと入っていった。

彼が帰っていく姿も見送らずに、ただ真っ赤になる顔を抑えながら

必死にエレベーターで10階まで上がって一番端の部屋の鍵を開ける。

 

 

 

「ただいまー…って誰もいないか。」

 

 

 

欲しいもの。

家族、温かい誰かのぬくもり。

 

 

 

冷え切った真っ暗な部屋の明かりを点けてソファーに倒れこむ。

疲れきった体はキシキシと痛みを増し、すぐに私を夢の中へと導いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はケーキ屋のバイトが定休日。

朝の新聞配達を終え、疲れの取れていない体で学校へ登校する。

靴箱に靴をしまい、上履きに履き替え教室を目指す。

 

 

 

「おい!」

 

 

 

心臓がドキリと跳ね上がる。

振り返るとそこには、昨日私が告白して振られた丸井ブン太が立っていた。

どうして名前を知ってるんだろうとか、一体何事だろうかと思っていると、

大きなテニスバッグを背負った彼は笑顔で私の元へと駆け寄り、片手を上げて「よっ」と挨拶をしてくれた。

 

 

 

「お、おはよ。…朝練、だったの?」

「おう!昨日から部活が本格的に厳しくなりだしたから朝練も超ハード。」

「どうして厳しくなりだすの?」

「試合が近いからな。いくら王者立海だからって気抜いてらんねーんだ俺達も。」

 

 

 

そりゃそうか、なんて思いながら朝から不釣合いな彼と共に廊下を渡る。

時折チラチラと好奇の視線と嫉みの視線が私を突き刺すけれど、特に気にすることなく歩く。

だって、私と丸井ブン太は何にもないもの。

私は振られた、だからもうこれ以上の発展はなにもない。

自分で言ってて悲しいけど、しょうがないんだ。

 

 

 

「じゃ、俺ここだから。」

「そっかB組だったっけ?」

「うんそう。お前は?」

「えっと、I組!…遠いねえ。」

「そうだなあ。でもジャッカルと一緒じゃん!俺ジャッカルに用事あってよくI組行くぜ!」

「そういえばよく来てる気もしなくも…ない、かな?」

「…おい、お前俺のこと好きならちゃんと見とけよ。さっきから記憶が曖昧すぎっ!」

 

 

 

ムッとした表情を見せる丸井ブン太に、思わず顔が引き攣る。

どうしてそういうことを本人目の前にしてはっきりと言ってしまうのだろうかこの人は。

驚きで私が固まっていると、丸井ブン太は気にする素振りも見せずに

「じゃーな」とB組の教室の中へと入っていってしまった。

その背中がやけに虚しく見えたのは、きっと今私は恥ずかしくて死にそうだったからなのかもしれない。

 

 

 

「見たよ、ちゃん?」

「………小百合。」

 

 

 

振り返ると厭味たらしく口許に笑みを浮かべている悪友、小百合が立っていた。

私をからかおうとしているのか、軽い足取りで私の隣に並ぶ。

二人して自分のクラスであるI組へ向かって足を進めた。

 

 

 

「昨日告ったんでしょ、アンタ。今の感じじゃ、ブン太君と何か進展あったの?」

「別にないよ、フラれたし。」

「え、でもさっきアンタら…結構仲良かったじゃん。」

「まあいろいろあって。またお昼にでも話すよ。」

 

 

 

驚いて目を丸くする小百合に苦笑いを返す。

小百合が言うには昨日告白した女子は私を入れて全部で6人。

全て「暫く彼女作る気がない」という理由でフラれているらしい、もちろん私もそうだった。

さっきも丸井ブン太が自ら言っていたように、部活が忙しくなってそれどころじゃないからだそうで。

妙に変なところで部活熱心な男はよくわかんないって小百合は文句を垂れていたけど、

内心、私はそれでよかったと思ってるから別にもう何だっていいんだ。

 

 

 

「でもさ、ブン太君もに結構脈あるんじゃないの?」

「ないよ、だってあの人私に対してデリカシーも何にもないからね。」

 

 

 

えーそうかなーなんて言いながら小百合は納得のいっていない表情のまま自分の席へと戻って行った。

お昼休みになるまでの毎回の休み時間は小百合と二人でその話で持ちきり。

とうとうお昼休み開始のチャイムが鳴って、教室は再び騒がしくなった。

 

 

 

「ささ、。洗いざらい昨日のこと報告してもらうわよー。」

「はいはい。小百合の席でいい?」

「おっけ。お弁当持っておいで。」

「らじゃ。」

 

 

 

お弁当と言っても私は行きに買ったコンビニのパンと紙パックジュースなんだけど。

その二つを持って窓際の席の小百合のもとへ行く。

小百合の前の席がちょうど空いていたのでそこを借りることにした。

 

 

 

「で、何て言ってフラれたの?」

「……直球ですね。」

 

 

 

こそこそっと話し出す小百合のあまりにも直球な切り出しに思わず呆れる。

普通、そんな傷口を抉るようなところから話し出すかっつーの。

私が溜め息を吐いたと同時に、騒がしかった教室のドアが開いてさらに少し騒がしくなった。

 

 

 

「ジャッカル飯行くぞい!」

「おうちょっと待ってくれ、すぐ行く。」

「三秒しか待たねえ。いち、に、さん、はい先行くぞ。」

「早えよ!だったら初めから一人で行けばいいだろ!!」

 

 

 

ドアと小百合の横の席という距離のある場所での会話に、思わずクラス中から笑いが漏れる。

小百合の隣の席の住人ジャッカル君と、そのジャッカル君を訪ねに来た丸井ブン太。

クラスの女子はクスクスと笑いながらも視線は丸井ブン太に釘付けだった。

私もその一人で、視線は気がつけば自然と丸井ブン太の方を向いていた。

ジャッカル君が鞄の中をゴソゴソ漁っているのを待っている丸井ブン太が教室をキョロキョロと見渡している。

そして、何故か突然、私と目が合ってそこで止まった。

 

 

 

「あーそうそう!、朝お礼言いそびれたんだった!」

「え、」

「昨日はホントにケーキさんきゅなっ!!」

 

 

 

クラス中の視線が一気に私へと向く。

冷たいものと、疑惑の眼差し。

そんな離れたところから大きな声で名前まで言うものだから、

私は居たたまれなくなって思わず肩を竦めて小さくなった。

その上、丸井ブン太はお昼ご飯が入ったコンビニの袋を片手にズカズカと教室の奥にまで入ってくる。

 

 

 

「そうそう、俺の弟覚えてる?ほら、貫太っつって小さい方。」

「え、ああ、うん。泣いてた方ね。」

「アイツがお前のことお姉ちゃんっつって何か知らねえけど懐いてた。」

「ええ!?あの短時間で!?」

 

 

 

私の前まで来たかと思うと、突然そんなことを言い出す。

もう用意が出来たジャッカル君が「今度は俺を待たせる気かよ」と呟いているのが聞こえた。

それにしても、周りの視線が…痛い。

 

 

 

「ケーキお前からだっつったら喜んで食ってたし。よかったな。」

「ああ、ちゃんと弟達にも分けてくれたんだね。一人で食べちゃわないかちょっと心配だったんだ。」

「おいっ!一人で全部食ったりなんてしねえよ!」

「いや、お前はするってブン太…」

 

 

 

ムッとする丸井ブン太に追い討ちをかけるようにジャッカル君がすぐさま突っ込む。

何やら丸井ブン太には前科があるようで、そのあと口ごもってたから強ち間違いではなさそうだ。

渡す際にちゃんと「弟と分けて」と言っておいてよかった、と安堵の息を吐いたのと同時に私の名前が教室中に響く。

顔を上げればドアのところで私を呼ぶ先生の姿があった。

 

 

 

「はい何ですか?」

「ああ、確か図書委員だったよな?」

「……そうでしたっけ?」

「あれ違ったか?」

 

 

 

おかしいなーなんて言いながら頭を掻いてパラパラと手帳を開く先生。

 

 

 

「やっぱり図書委員だ。それでお前に頼みが」

「ちょっと待ってくださいよ!知りませんよ!?」

「いやたぶんお前が保健室で寝てる間に決まったんだと思うぞ。で、続きなんだが…」

 

 

 

有無を言わせない先生のマシンガントークが続く。

図書委員だなんて訊いてない、訊かされていない。

そんなの委員会とか放課後に出てられないよ私。

だからと言ってバイトがあるのでなどとは死んでも言えない私は、

焦りながらも一応先生の話を訊いて適当に相槌を打っておく。

 

 

 

「――…ってなワケなんだ。よろしくな。」

「……はぁい…」

 

 

 

半べそをかきながら頷き、振り返ってもう勝手に弁当を食べ始めていた小百合に「ごめん」と謝り、

知らないうちにジャッカル君も丸井ブン太もいなくなった教室を出て行く。

言われた通りの仕事をするため、目指すは図書室。

何やら春休みに貸し出ししていた本を返却していない人がまだ数人いるので

その人たちのクラスまで言って理由を聞いて、返してもらって来いとのことだった。

 

 

 

「失礼しまーす。」

 

 

 

図書室で貸し出しカードを見て誰が何の本を返していないのか確認する。

すると、そこには見覚えのある名前が一つ。

 

 

 

「き、切原…赤也。」

 

 

 

私が丸井ブン太に振られたところを偶然目撃されてしまった相手。

彼の名前が貸し出しカードの中に記入されていて、思わずギョッとした。

借りた本の名前は英和辞書。

あまり勉強が好きそうなイメージはないのだが、図書室で辞書とか借りちゃうあたり案外好きなのかも。

 

 

 

「いや、もしかすると辞書がないと勉強が一歩も進まないタイプなのかも…。」

 

 

 

そうだ、そっちの方がしっくりくる。なんてことを思いながら彼のクラス、つまり二年D組のクラスを訪ねる。

そこは一学年下なだけあってやけに騒がしかった。

開いた廊下側の窓からは次から次へとプリントを丸めたボール代わりのものが飛び出していた。

野球でもしているのだろうか。

私は野球が好きだからそれは別にいいと思う。

 

 

 

「あの、このクラスに切原君っていますか?」

「あ、ちょっと待っててください。」

 

 

 

ドアの近くにいた男の子に声をかけるとその子が私の上履きの色を見てから

「おーい切原お客さん!」と教室の中に向かって叫んだ。

途端にボールの飛び交いがぴたりと止まり、騒がしかった教室も少し静かになった。

きっと、さっきまでの盛り上がりの中心は切原君だったんだろう。

 

 

 

「ん、誰ッスか?」

 

 

 

面倒臭そうに頭をぽりぽり掻きながら片手はズボンに突っ込んで私のもとへとやってくる。

再び教室の中が騒がしくなって切原君抜きの擬似野球が始まった。

 

 

 

「って、あ、アンタあの時の…」

「あの切原く、」

「丸井先輩にフラれた人だ。」

 

 

 

私の顔を見て思い出したって顔をした切原君。

はっきりと言われる前に用件を伝えてしまおうと思ったが、それは見事に打ち破られた。

そうです私は丸井ブン太にフラれた女です。

 

 

 

「何の用ッスか?」

「あの、私実は図書委員で…切原君春休みからずっと辞書借りっぱなしでしょ?

それを返してもらいにきたんだけど、持ってる?」

「へ、辞書?」

 

 

 

素っ頓狂な声を上げて目を見開いた切原君はしばらくして思い出したのか、

小さく「あ」と言って困ったように眉を下げて再び頭を掻いた。

 

 

 

「アレか…確か真田副部長に英語の宿題してないのバレて無理矢理させられた時の…」

「………。」

 

 

 

ぼそりぼそり思い出したことを口に出していく彼はやはり後者の人間だったのだと、

私の人間観察力も捨てたものじゃないなと思った。

どうやらあの辞書は彼がしないつもりだった宿題を真田君に無理矢理させられた時に

何の辞書も持っていなかった彼は仕方なく図書室で借りたとか何とか。

でもその辞書を碌に使いもせず、行方がわからないのだとか。

 

 

 

「……切原君、どうするの?」

「へへ、見逃してくれたりはー」

「できるわけがないよね。」

「ですよねー。」

 

 

 

ヘラヘラ笑って「どうしましょ」なんて訊いてくる彼はこの問題をあまり重要視してはいないようだ。

借りていた辞書を失くしたって先生に言ったら…どうなるんだろ。

よくわかんないけど弁償とかさせられるのかな?

まあ自業自得だし私には関係ないから、別に彼が失くしたという事実はどうでもいいんだけどね。

 

 

 

「あーとにかく、一応今日また探してみるんで待ってくれません?」

「…別に…いいのかな?よくわかんないけど、わかった。先生にそう伝えとく。」

「ウィッス。よろしくッス。」

 

 

 

切原君はそんじゃっと片手を上げ、元気に挨拶をして教室の中へと入って行った。

すぐにさっきと同様、騒がしい擬似野球に参加してプリントを丸めたボールを投げ始める。

そんな切原君を一目見て、私はクスリと笑ったあと、その場を後にした。

 

 

 

 

 

- - -

 

 

 

 

 

ギャラリーの方がやけに騒がしく、保険医の先生、それに中学の頃の監督である榊先生までもが集まりだした。

その様子をコートの中からぼんやりと見上げていたら頭の上にタオルをかけられる。

 

 

 

「ジロー、汗は拭いておけ風邪引くぞ。」

「うん…でも、何かあったのかな?」

 

 

 

今日は俺が跡部に頼み込んで急遽、立海と練習試合をすることになった。

正直、跡部が許可してくれるとは微塵も思ってなかったからあのお願いはある意味賭けに近かった。

でも何を思ってか、跡部は立海との練習試合を組んでくれたし、結果はオーライ。

 

 

それともう一つ、俺は跡部に頼み事をした。

それは、俺と跡部がダブルスを組むということ。

その上相手は丸井君だということ。

 

 

結果、俺達は負けた。

四ゲーム取れただけまあまあよかったんじゃないかって思うけど、何たって俺達は急造ペア。

いくら中学から共にテニスをしてきたと言っても俺と跡部はシングルの方が向いてるし。

 

 

 

「おい大変だ跡部!今そこでが倒れたってっ…!」

 

 

 

次の試合の為、少しアップをしてきて帰ってきたばかりの宍戸が叫ぶ。

跡部の目の色がバッと変わって、すぐにコートを走って出て行った。

俺も後に続く。

後ろのコートでまだ立っていた丸井君の存在が気になったけど、今はそれどころではなかった。

だって、が倒れた原因はきっと、俺にある。

俺が、全て仕組んだことだから。

今日のこの試合から何から何まで、全ては俺の責任。

 

 

 

「おいどけ!はどこだ!?」

「落ち着き跡部、やったら今保険医に連れて行かれたところや。」

「たぶん保健室だと思います。」

 

 

 

が倒れたって場所に行くと何故か忍足と日吉がいた。

ちょっと焦りを見せている跡部は慌てて言われた通りの保健室へと向かう。

失礼しますと言ってすぐに中へ入ると、ベッドの一角でがすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てていた。

 

 

 

「監督!は…」

「落ち着きなさい。ただ眠っているだけだ。」

「ねえどうして監督がここに…?」

 

 

 

中学の頃の監督であるはずの榊先生がどうしてここにいるのだろうと、

俺はが寝ている隣のベッドに腰を下ろして訊いた。

監督は相変わらずの無表情で眠っているを見下ろしながら口を開く。

 

 

 

「この子の様子が最近また、おかしかったから…心配でな。」

「今日ここで試合があることをご存知、だったんですね。」

「高校でのお前達のことは中学の私のところにまで情報が入ってくる。当然だ。」

「だからって、何で…」

「相手が立海だったからだ。」

 

 

 

跡部が少し目を見開いて驚いた表情を見せる。

監督はの前髪を優しく撫でながら目を伏せた。

 

 

 

「この子が突然試合を見に行くと言って来た時、まさかと思ったよ。

何故この子を今日の試合に呼んだ、跡部。」

「……それは、」

「俺が頼んだんです、監督。跡部は何も悪くない。」

 

 

 

監督が跡部を睨む目をそのまま俺へと向ける。

小さく開いた口から「芥川…」と俺の名前を零した。

跡部は本当に何も知らないから、俺の頼みをきいてくれた。

きっと知っていたら、俺の今日の頼みは全て断られていただろう。

俺はそこを利用した、汚い男だ。

 

 

 

「俺、には幸せになってもらいたいんです。でも、今の状態じゃ、は…」

「だからって、をここに呼ぶことはないだろう。この子にはまだ早すぎる。」

「でも監督!が丸井君を忘れることなんて、たぶん死ぬまでないんですよ!!」

「丸井、くん?」

 

 

 

しまった、と心の中で思ったのも束の間、跡部が眉間に皺を寄せて俺のことをじっと見ていた。

 

 

 

「丸井君って、あの丸井だな。……ジロー、お前…」

 

 

 

口を閉ざして俺は俯く。

跡部は前々からの心の傷を作った相手がいることを知っていた。

ただそれが誰かは知らないから、ソイツが立海のレギュラーで、丸井君だってことも、何も。

でも俺が今思わず口走ってしまった名前で、きっともう跡部のことだから気づいてしまった。

丸井ブン太、それがの過去の想い人だと。

 

 

 

「とりあえず、が目を覚ますまで跡部、お前はここにいなさい。

は完全に跡部に頼りきっている。目が覚めた時、一番側に居た方がいいだろう。」

「……わかりました。」

「芥川は私について来なさい。」

 

 

 

監督が椅子から立ち上がり、目で俺に合図する。

きっと、今から俺達は立海のところへ行くんだろう。

でも何も知らない跡部をそこへ連れて行くわけにはいかない。

俺はわかりましたと言って立ち上がり、監督と共に保健室を後にした。

 

 

 

 

 

― 君の笑顔を一度だけ、俺は見たことがあった。

     その笑顔が忘れられないから、今の君を見ていると辛いんだ。

          なあ、俺のしてることって、お前にとっては迷惑なのかな? ―