胡蝶蘭

 

 

 

 

 

できることなら、俺は何だってしてやりたいと思う。

もう一度あの頃の二人をこの目で見ることが出来るというのなら、

俺はどんなことだって二人のためにしてやりたい。

それが、嘘偽りのない俺の本当の気持ち。

 

 

 

 

 

『ゲームセットウォンバイ!立海、丸井・ジャッカルペア6−4!!』

 

 

 

俺達はお互いにどちらからともなく片手でハイタッチを交わす。

ぱちんと景気のいい音が鳴り、俺はネットの向こうでタオルを掛けてもらっている芥川に視線を向けた。

 

 

 

「跡部と芥川…か。アイツらシングルスプレーヤーだろ。」

「ま、俺らがあんな急造コンビに負けるわけねえじゃん。何考えてんだか。」

「何かとっておきの秘策でもあるのかと思ってたのに…何だったんだ?」

 

 

 

さあな、と試合中も噛んでいたガムを膨らますブン太。

もう味も何も残っちゃいないだろう。

俺だったらそんなガムいつまでも噛んでいられない。

そんなことを考えながら氷帝側に妙な疑念を抱いていると、

突然氷帝の宍戸がギャラリーを越えてコートに飛び入って来た。

 

 

 

「おい大変だ跡部!今そこでが倒れたってっ…!」

 

 

 

、その名前に俺もブン太も反応を示す。

肩がピクリと跳ね上がり、目を見開いた。

って、あの…か?

同じ名前がいたっておかしくもないが、俺は何故かこの時、嫌な予感がした。

それに確か高校は氷帝に行ったんだったか、だとしたら…。

俺がそんなことを考えているうちに跡部が走り出し、その後を芥川も追ってコートを出て行った。

 

 

 

「おい、ブン」

「ダウン。」

「え?」

「…ダウン行くぞジャッカル。じゃないと真田にどやされる。」

 

 

 

跡部が向かった方向とは逆に背を向けて歩き出すブン太に俺は戸惑いの声を漏らす。

ラケットを片脇に挟み、ポケットに手を突っ込んでガムをパチンと音を立てて割る。

ブン太の表情は、誰が見ても判るほど険しくなっていた。

 

 

 

「でももしかしたらってあのかも…」

「あのな、ジャッカル。」

 

 

 

低い、そんなブン太の声に俺は言葉が詰まる。

ゆっくりと肩越しに振り返ったブン太の目は、もう何も言うなと俺に訴えかけていた。

 

 

 

「俺はアイツを捨てたんだ、三年も前に。」

 

 

 

わかったらさっさと行くぞい。と言って本当に歩き出してしまったブン太の背を

どうすればいいのかわからなくなった俺は眺めていることしか出来なくて、

あの頃のアイツと、あの頃のの姿が今も俺の頭の中で渦巻いていて。

嫌というほど俺の胸を締め付けた。

 

 

 

「おいどけ!はどこだ!?」

「落ち着き跡部、やったら今保険医に連れて行かれたところや。」

「たぶん保健室だと思います。」

 

 

 

ギャラリーの向こうから姿は見えないが跡部の焦った声が聞こえる。

俺はそれを背に、ブン太が歩いて行った方へと歩き出した。

 

 

なあ、ブン太。

なあ、

 

 

お前達はこうするしか他に道はなかったのか?

好きなんだろ、今もなお、好き合っているんだろ?

なのに、どうして傷つけ合う道しかお前は選ぶことが出来なかったんだ、

 

 

 

(ブン太…俺は今もまだ、お前の進んだ道が、正しいとは思えない。)

 

 

 

試合には勝ったはずなのに、胸に残った蟠りを俺はただ持て余していた。

 

 

 

 

 

- - -

 

 

 

 

 

丸井ブン太との出来事を洗いざらい小百合に話すと、放課後、手を引かれて連れて来られた先はテニスコート。

今日は確かにケーキ屋のバイトはお休みだけど、だけど…せっかくの久しぶりのお休みが…。

テニスコートに着くと、結構な人数がコートを取り囲んでいて私は驚いた。

すごい、女ばっかり…。

 

 

前に一度、副部長である真田君が声援が煩いとのことで怒鳴ったことがあるらしい。

それからしばらくは全くコートに人が集まらなくなったって訊いていたのに、

喉元過ぎれば熱さ忘れるという諺のようにどうやらまたギャラリーが復活していたようだ。

みんな暇を持て余しているようで、中学生なのだから仕方がないと言えばそれまでだ。

 

 

 

「ねえ小百合、テニスコートなんて来てどうすんの?私別にテニスに興味なんてこれっぽっちも…」

「バッカ、あんたはブン太君見ときなさいよ。何にも知らないくせに。」

「……はいすんません。」

 

 

 

私はここに来るまでに散々怒られた。

今までの経過を全て小百合が訊いて、まず第一声に発した言葉は「あんたバカ」でした。

私が丸井ブン太のことを何も知らないうちに告白したこと、ただあの日の一目惚れだったこと、

全てに置いて私は何か抜けていたのだ。

思い立ったらすぐに行動を起こす性格なので、後先考えずに突っ走る。

今回もそれで玉砕したのだけれど、それを小百合に言わせてみれば私はただの準備不足が原因だったようだ。

もっとちゃんと彼を知って、彼のテニスをしている姿を見て、

そしたらもっと可能性があったんじゃないかってことならしい。

 

 

 

(そんな単純な…)

「あ、!ブン太君出てきた!」

 

 

 

フェンスにしがみ付いて私の肩を叩く。

渋々ながらも、私の目は彼を追う。

ああ、そういえば彼がテニスをするところなんて初めて見るかもしれない。

 

 

 

「へーすごいね、気合入ってるー。」

「やっぱり今は大会前ならしいから結構練習に力入ってるね。こっちまで緊張してきちゃう。」

「のワリには丸井ブン太はガム噛みながら練習してんじゃん。いいのアレ。」

「……、知らないの?ブン太君はガムを噛んでた方が集中力アップするんだって。有名な話よ。」

「そうなの?ああ、そういえばよく噛んでる気がする!」

「アンタねえ…。」

 

 

 

呆れる小百合の横で、私はフェンスにしがみ付き、ひたすら熱い視線を送る。

すると、私の視界いっぱいに入ってきたのは今日のお昼休みも会ったあの

 

 

 

「なーにガン見してんスか?もっと控えてくれません?何か気ぃ散るんスけど。」

「うげっ、き、切原君…。」

 

 

 

ラケットを脇に挟み、短パンのポケットに手を突っ込んでフェンス越しに私を見ている切原君。

周りのギャラリーが可愛いだのカッコイイだの騒ぎ出し、私の顔は引き攣る。

隣の小百合も「何で赤也君がに…!」って悔しそうにしてたけど、生憎私は彼が苦手だ。

何故かって、丸井ブン太にフラれたところを目撃されているっていうのが一番の原因。

切原君は私の素直な反応にピクリと眉を寄せた。

 

 

 

「何スか…うげって。」

「べ、別に。それに切原君見てたわけじゃないし…」

「ふーん、判ってますよそンくらい。どうせ丸井先輩っしょ?懲りないッスねー。」

「っ、うるさいな放っといてよ!」

 

 

 

ちょっとキツめの声が出て、私自身もハッとする。

周りのギャラリーからの冷めた視線を全身に感じて、すぐに慌てて「ゴメン…。」と謝ってみたけど、

切原君は「別に。」とさほど気にも留めていない様子でコートの方へと戻って行った。

一体、何しに来たんだ…。

 

 

 

「ちょっと!訊いてないよ!赤也君とはどういう関係!?」

「……別に、特には…」

「ホントに!?言っとくけど、私赤也君ファンなんだから、はとっちゃダメだよ!」

「はいはい、ご心配なく。むしろ切原君は苦手部類だよ。」

 

 

 

私が興味なさげにうんざりとそう言うと、小百合は安心したように良かったと胸を撫で下ろした。

 

 

 

「約束だからね?ってば何か昔から男寄って来る体質だから…羨ましいにも程があるよ。」

「…そんなに寄って来てないって。気のせいじゃない?」

「いーや、何かね、って男からしたら守ってあげたいってタイプなんだって。クラスの男子が言ってた。」

「何よそれ…よくわかんないし。」

 

 

 

ここだけの話、小百合とは幼稚園からずっと一緒だ。

だから私がいつ誰と付き合ったとか、誰に告白されたとかそんな話は筒抜けで、

私だって小百合がいつ誰が好きになって誰に告ってフラれたとか付き合ったとか一応わかっているつもり。

ちなみに、私と小百合は神奈川第二小学校出身なので、

テニス部レギュラーだったら今さっきの切原君や柳君だって一緒。

柳君にいたっては彼が緑川第三小学校から転校してきた時、同じクラスになったことがある。

隣の席になって、私はかなり緊張したっけ。

 

 

 

「あ、今日は練習試合の日じゃない。やったー!」

「試合の日?」

「水曜日は基礎練習の後に試合するんだよ。ま、は初めて見に来るから知らないも同然だけど。」

「…む、そんな他人の部活のメニューなんてわざわざ覚えてるわけないじゃん。」

「フッ、そういう考えを持ってる時点ではここにいるみんなより一歩劣ってるのよ。

ブン太君のファンならそれくらい知っておかないと。常識だよ。」

「別にファンじゃないもん…。」

 

 

 

自信満々に、まるで自分のことのように胸を張って喋る小百合に半ば呆れながら、

延々とその話に付き合ってやる。

すると基礎練習も終わったのか、試合が始まる空気が流れた。

 

 

 

「始まる始まる!」

「ん、ここからじゃあんまり丸井ブン太が見えな…」

こっちこっち!」

 

 

 

小百合に連れられるがままに丸井ブン太が見やすいコートへと連れて行かれる。

たどり着いた先は確かに丸井ブン太が見えやすい、そんな場所だった。

でも、後ろ向いてて…ちょっと残念。

 

 

 

「ほら始まったよ!よく見ときなさいよ!!」

「……わかってるって、静かにしてなよ。」

 

 

 

審判の開始の合図と共に、ギャラリーの応援が激しくなる。

向かいの仁王君と柳生君のペアからサーブが放たれ、それをジャッカル君が捕りに行く。

さあ、試合が開始した。

たぶん今日よく見ておかないと、次いつ見れるかわかったものじゃない。

 

 

ボールがあっちこっちに行き交って、目で追うことに私は必死だった。

何やら四人ともとても真剣で、普段の生活の彼らしか知らない私にとってそれはかなり新鮮な光景だった。

みんな目が違う。

普段と今の彼らとじゃ、輝くものが違う。

こりゃ誰だって惚れちゃうってもんだ。

普段だってカッコイイのに、今はもう言葉にできないほど、全身でそのかっこよさを感じている。

 

 

 

(目が…離せない。)

 

 

 

私は自分でも気づかないうちにフェンスを力強く握り締めてその試合に見入っていた。

まさかここまで、試合終了の合図が鳴るまで自分が一言も喋らずその場から動くこともできなかったなんて。

信じられない思いで、私は試合が終わったにも関わらず、まだ頭の中がボーっとしていた。

 

 

 

「ど、天才的だったろい?」

「…うん…って、え?」

 

 

 

てっきり小百合が私に話しかけていると思って返事を返したのに、

ハッと気づけばフェンス越しの前にはさっきまで目の前で試合をしていた丸井ブン太だった。

彼はドリンク片手に、肩にかけたタオルで汗を拭いながら得意げに微笑んでいる。

 

 

 

「なんだよー来てんだったら言ってくれりゃよかったのに。水臭いじゃん。」

「な、何…別に今日はバイトが休みだったからたまには…」

「はいはい。さっき赤也がニヤニヤしながら俺に近寄ってくるから何かと思ったぜ。」

「…切原、あのやろう…」

「へへ、俺の妙技、すごかったろい?」

 

 

 

切原君に僅かな恨みを抱いていると、丸井ブン太は自信満々に笑みを浮かべていた。

ふん、これがモテる男の余裕ってわけだ。

悔しいけどかっこよかったので私は素直に頷いた。

 

 

 

「ま、本番はもっとヤバイぜ。今のなんて比べ物になんねえくらいにな!」

「自分でそれを言うか…。」

「嘘はついてねえもん。本当のことだからしかたねえじゃん。」

「ちょっとは自重した方がいいよ。そのうち恥かくんじゃない?」

「あーないない。だって俺天才だし。信じられないってんなら見にくりゃいいじゃん。」

 

 

 

口の端を上げて不敵に笑う丸井ブン太に思わず私は目を瞬かせる。

隣の小百合が何やらニヤニヤしてた。

 

 

 

「……いつ?」

「え、試合?来週の日曜だけど…何、用事?」

「……あーうん、用事、かな?」

「そっか、なら仕方ねえか。まあ相手はそれほど大したことないらしいから俺らが勝つに決まってんだろい。」

 

 

 

パチンと割れるガム。

なんて自信過剰な男なんだ。

自分に降りかかる”もしも”の事態を予想したりはしないのだろうか。

これで負けたら指差して笑ってやる、と心に誓った。

 

 

 

「ま、頑張れよ。」

 

 

 

声に出さず口だけが動く。

確かに彼は続けてこう言った。

” バ イ ト ” ――― と。

 

 

どうしてわかったかな、私がバイトだって。

私はニヤケそうになる顔を必死に抑える。

 

 

 

「……うん、ありがと!」

 

 

 

ほんのり紅くなった頬に気づかれているのかどうかはわかんないけど、

私は隠すことなく顔を上げて満面の笑みで微笑んだ。

それを見て「おう!」と丸井ブン太も笑みを返してくれて、

真田君の集合の合図で彼はコートの中へと戻って行ってしまった。

 

 

丸井ブン太に頑張れって言い返しそびれた私は、その喉まででかかった言葉を飲み込んで、

一人、言えなかった言葉を心の中で呟いた。

 

 

 

 

 

彼の笑みを見ると、私は救われたんだ。

温かくて、寂しさなんて忘れるくらい、優しかった。

 

 

 

 

 

- - - 

 

 

 

 

 

「柳と赤也の試合…どう?」

 

 

 

ダウンを終えて立海用のベンチに戻ると、幸村が腕を組んでそこに座っていた。

俺達の次の試合の柳と赤也のダブルスの経過を訊いてみる。

しかし幸村からは何も返事が返ってこないので仕方なくマネージャーに渡されたドリンクで喉を潤し、返事を待つ。

シカトかよ、って思ったけどここは我慢だ。

幸村はじっとコートで繰り広げられる試合を見ていた。

 

 

 

「丸井。」

 

 

 

赤也の強烈なサーブが対戦相手の宍戸と鳳の間に突き刺さったのと同時に、

俺の質問を無視したはずの幸村がブン太の名を呼んだ。

ブン太からは、返事はない。

 

 

 

「お前、今日はもう帰れ。」

「え?何でだよ。」

「ジャッカル、お前もだ。今日はもう二人とも帰っていいよ。」

「おいおい、何だよ急に。そりゃ試合は終わったけど、まだ真田や仁王の試合だって…」

「中途半端な奴は必要ないんだ。」

 

 

 

決してこっちを見ず、ただ試合だけを見てそう言う幸村に俺とブン太は少し眉を寄せる。

何だってそんなことを言われなくてはいけない。

苛々が募って思わずタオルを握り締める手に力が篭ったが、俺は何とか冷静さを保つことはできた。

が、ブン太はそうはいかなかった。

 

 

 

「何でそんなこと言われなきゃなんねんだよ!試合には勝ったし、何も文句はねえだろ!!」

「試合、ね。よくそんなことが言えたな。じゃあ訊くけど、跡部と芥川ペアに6−4とはどういうことだ?」

「………それはっ、」

「お前達は中学からの持ち上がりペアだ。いくら跡部や芥川が強いと言っても奴らは所詮シングルスプレーヤー。

お前達の敵じゃなかっただろ?それなのに相手に4ゲームも取られるなんて、立海の恥だ。」

「な、何もそこまで言う必要ねえだろ!!」

 

 

 

今すぐにでも幸村に飛び掛って行きそうなブン太を俺と柳生で必死に抑える。

幸村はやっとこっちを向いたかと思うと、その目はとても冷ややかな目で、思わず俺は息を呑んだ。

 

 

 

「どうした、丸井。昔の女のことでも思い出したのか?」

 

 

 

フッと口許を歪めて笑った幸村に、ブン太はこれでもかってくらい大きな目を見開き、

俺も柳生も振り切って幸村目掛けて拳を振り上げた。

でも、その手が空を斬ることは、ない。

 

 

 

「放せよ、仁王!!」

 

 

 

その手を、仁王が掴んだから。

幸村は「余計な真似を、」と言いながらも

その面は余裕綽々で、再びコートへと視線を向けた。

 

 

 

「落ち着け。そうカッカしなさんなって。」

「うるせえ!お前に関係ねえだろ!っつか、喧嘩売ってきたのは幸村君の方じゃん!」

「でも、お前さんが調子可笑しいのは事実。何も間違ったことは言っとらんぜよ。」

 

 

 

言葉につまり、ブン太は唇を噛む。

もう殴る気配がなくなったのか、仁王はブン太の手を離しそのままポケットへしまった。

 

 

そうだ、確かに今日のブン太のコンディションは最低だった。

氷帝学園で試合があると伝えられた昨日の練習時、ブン太は小さく「え、」と声を漏らしていた。

きっとアイツ、の行った学校だと、ブン太自身知っているから。

ブン太は人一倍そういうことに関して敏感だ。

それが今日の試合まで引きずって、試合にまで影響しちまったってことか。

 

 

 

「自分で突き放したくせに気にしたりすんな。それより可哀想なのはあっち、の方じゃろ。」

「……アイツは、もう関係ねえ、」

「ほう、じゃあそれ以外に何がそんなに今日のブン太に悪影響を及ぼしとるんかの。」

「別に、ただ寝不足なだけ。ちょっと昨日メールしてたら寝んの遅くなってあんま寝てねえの。」

「………意地っ張りな奴。」

 

 

 

呆れたと言わんばかりの溜め息を吐いて仁王はやれやれとブン太から引き下がった。

違うんだ、違うんだ仁王。

これはそんな簡単な話じゃないんだ。

俺だって、遠くから見てりゃ、ただブン太が自分勝手にやってきたようにしか見えないけど、

けど実際は違う。

話を訊いて、一番近くで見てきたからこそ、俺は二人の別れが途轍もなく悲しかった。

どうしようもない焦燥感に駆られて、どうにしかして助けてやれねえものかと、たくさん悩んだ。

 

 

でもダメだった。

これはあまりにも辛すぎる、そんな運命だったんじゃないだろうか。

運命って言葉で片付けることができたなら、それはあまりにも残酷なことなんだけど。

 

 

 

「さっきね、榊先生と芥川がここに来たんだ。」

 

 

 

幸村がぼそりと呟き、俺は思わず え、と言葉を漏らす。

氷帝の監督と、芥川?

 

 

 

「お前達はダウンに行ってたからいなかったけどな。丸井に会わせろって、そう言われたけど断ったよ。」

「ぶ、ブン太に…?」

「たぶん、ちゃんのことを言いに来たんじゃないか?」

「……それで、のこのこ引き下がったのかよ。」

 

 

 

ブン太が視線を逸らしたまま不機嫌そうに口を開く。

他人事のように淡々と物を話す幸村に、きっと嫌悪感を抱いているんだろう。

そりゃまあ仕方がないっちゃ仕方ない。

幸村にとっちゃ確かに他人事の何事でもない。

その上、試合にまで影響を及ぼされちゃ迷惑なだけだろう。

 

 

 

「逃げるな、だって。伝言だけ残して帰ってったよ。」

 

 

 

場の空気が一瞬、ものすごく緊迫したものになった気がした。

コートで、審判がコートチェンジの合図を叫んだ。

 

 

 

 

 

- - -

 

 

 

 

 

もう少しだけ早くに雨が止んだらよかったのに。

そしたらきっと、私はこんなにも君を好きにはならなかったでしょう。

 

 

 

 

 

「あー雨って憂鬱ー。」

「だからって私の髪を乱さないでいただけるかな?」

 

 

 

窓の外は雨が降り続いている。

それはもう朝からずっと。

今はお昼休みで、昔から雨が大嫌いな小百合はイライラのあまり私の髪の毛を掴んでくしゃくしゃにしていた。

やめてほしい、ただでさえ今日は髪のまとまり感がなかったってのに。

 

 

 

さ、あれ出した?」

「あれって何さ。」

「あれだよあれ!あーアレで伝わんないとか私達の友情もここまでだ!」

「うっさいよアンタ。」

 

 

 

目の前でアレアレ煩い小百合に私はあれとは何だろうと思考を巡らす。

するとやっと言葉が出てきたのか、小百合は手を叩いて嬉しそうに言った。

 

 

 

「進路希望調査表!」

「あー、それね。うんまだだよ。」

「え、…ってことは、どこか外部受けるの?」

 

 

 

小百合の表情が途端に固まる。

そう、ここ立海大附属中学校は名前の通り、大学まで一貫したエスカレート式の学校。

つまり進路はほぼ決まっているも同然で、ちゃんと普通に授業に出ていて

ちゃんと定期テストもしっかりした点数を取っていれば自然と立海の大学に通えるといった素晴しい制度。

それでも外部へ行く人もいるわけで、そういう人のために学校側も定期的に進路希望を生徒に書かせる。

もう制度を受けると決めている人はあっという間に提出できるものだけれど、外部で悩んでいる人はそうなかなか出せたものじゃない。

 

 

 

「あーどうだろ。ただ、伯父さんが勧めてるだけ、東京の学校を。」

「……そっか、のオジサンは東京の学校だもんね。仕方、ない、か。」

 

 

 

しゅんとしてしまう小百合に私は言葉を選ぶ。

紙パックのフルーツオレを飲みながら少し前から伯父さんに言われていた言葉が頭を過ぎった。

『高校は東京へ来ないか』だ。

伯父さんが教師として働いている学校もここと同じようにエスカレート式の有名私立だ。

そこの高校ならきっと過ごしやすいし、伯父さんの監視下になるから伯父さんとしても安心なんだろう。

結構あの人心配性だからなあ。

 

 

 

「でも、本決まりじゃないし…悩んでるところなんだ。ここ離れたくないし。」

「……うん、絶対行かないでね。」

「こういう時はもうちょっと言葉選ぼうね、小百合ちゃん。」

「だって!がいなくなったら私……つまんないもん。」

 

 

 

拗ねたように口を尖らせる小百合に思わず私の胸はキュンとする。

まさか小百合がここまで寂しがってくれるとは…

 

 

 

「虐める相手がいなくなる。」

 

 

 

ああ、前言撤回。

私、本気で東京行こうかな。

 

 

なんて、悩んでいるのは事実、あの人がここにいるからってのもある。

幼稚園から一緒だった小百合と離れ離れになるのも寂しいけど、

丸井ブン太、彼がここにいる以上、私はきっぱりとここを離れることができそうにない。

きっとフラれた直後なら進路希望もあっさり出せたはずだ。

でも、今は違う。 状況が変わってしまった。

 

 

 

「ねえ、もし東京行ったらさ…」

「え、何か言った?」

 

 

 

ぼそり、聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで呟いた小百合の声を上手く聞き取れなかった。

私がハッとして聞き返すと、小百合は「何でもないわバーカ」と言って

ずっと手に持っていたままだったおにぎりの最後の一口を大きな口へと放り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うげ、この雨の中どう帰れと…」

 

 

 

下校時、靴を履き替えて空を見上げるとそれはもう帰りたくなくなるような土砂降りの雨。

四時からバイトだから、帰らないわけにもいかないのだけれど。

どんよりとした空は私のテンションをみるみるうちに下げていって、

仕方なくもう少しだけ玄関で雨宿りすることにした。

 

 

止まないな と、少しだけでも良いから雨が緩んでほしいと祈る。

バイトに行って泥だらけになっていないことが唯一の願いだから。

髪が濡れてびしょびしょのままバイトなんて冗談じゃない。

だからせめて今目の前で降り続けるこの雨が少しでも緩まることを祈った。

そんな時、背後から声がかかる。

 

 

 

「うっわ、すっげ雨。お前こんなんで帰るつもり?」

「…丸井、ブン太!」

「よっ、昨日ぶり!」

 

 

 

もう部活を始めているのだろうか、短パンにジャージでガムを噛みながら少し屈んで空を見上げる丸井ブン太。

その表情は声色とは違って、どこか残念そうだった。

きっとこの雨でコートが使えないからだろう。

彼はテニスバカだと訊いた事がある。 たぶん情報源は小百合だった気がする。

 

 

 

「こんなところで何してんの、部活は?」

「今部活真っ最中だぜい。今日は生憎この雨だからレギュラーだけ校内駆け回ってんの。」

「じゃあ…君は今サボり真っ最中ってわけだ。」

「違っげーよ!お前がいたからちょっと休憩がてらに声かけに来ただけだっつーの!」

 

 

 

むうっと不機嫌さを露にする丸井ブン太に、不謹慎ながらも胸をときめかせる。

だって、今のは反則でしょ。

普通私がいたからって、声なんてかけに来る?

そんなことしないでよ。 私はフラれた身で、君は私をフッた側なんだから。

本当、無神経な男だ、丸井ブン太という男は。

だけど丸井ブン太は私が心中でそんなことを考えているなんて知らずに、そのまま話を続ける。

 

 

 

「お前は、今日もバイト?」

「そうなの。でもこの雨だからちょっと緩くなるまで待とうかなって…」

「おうそうしろそうしろ。この雨じゃ帰るのも困難だろい。」

「でもバイト四時からだから…あと五分くらいしか待てないかな。」

「ふーん、じゃああと五分俺も休憩しよっかな。」

「え、何でよ…」

「だって一人でこんなところいたってつまんねーだろ。俺が話相手になってやるってこと。」

 

 

 

そう言ってどっかりと靴箱にもたれかかって座り込む丸井ブン太。

ちゃんと廊下側から死角になるところに座っているあたり、彼は結構しっかり屋だ。

休憩とか言ってるけど、きっと本当は練習をサボってるんだろう。

ありがたいけど、どこか申し訳ない気持ちになった。

 

 

 

「何してんだよ、座んねえの?」

「あ、いや、座るけど…君って本当、マイペースだね。」

「何だよ急に…。」

「ううん、こっちの話。まあ気にしなくていいよ。」

「そんなこと言われたら気になるだろい。……つかさ、その君ってのやめろよ、気持ち悪ぃ。」

 

 

 

ガムをぷくっと膨らませて視線だけをこっちに向ける。

私はそんな丸井ブン太の隣にゆっくりと腰を下ろした。

 

 

 

「じゃあ丸井ブン太。」

「だから何でフルネームなんだって!」

「えーだって……じゃあどう呼べばいいのよ。」

「普通にあるじゃん、ブン太君とかあとは、」

「……じゃあ丸井君。」

「………お前意地っ張りだなー…」

 

 

 

げんなりしたような視線を向けられ、私は口を尖らせる。

 

 

 

「ブン太君って…言いにくいし。丸井君の方がいい。」

「はあ?ほとんどの奴は苗字の方が言い難いっつって下の名前で呼ぶぜ。」

「えーそうかなー…」

 

 

 

私はそういえば小百合も丸井ブン太のことをブン太君って呼んでたな、と思い出し、首を傾げた。

絶対ブン太に君をつけると呼びにくいと思うんだけど。

すると丸井ブン太はガムを割ってそれを再び口の中で噛み始め、「じゃあ…」と言ってもたれていた体を起こした。

 

 

 

「呼び捨てな。ブン太でいいや。」

「はい?」

「俺のことブン太なんて呼び捨てにする奴って珍しいから特別だぜい。」

 

 

 

自信満々で胸を張ってそう言う得意げな彼に私は驚愕した。

ええ、それはもう、ビックリです。

私は思わずそんな彼に哀憐の眼差しを向けた。

 

 

 

「……何でぃ、その目は」

「いや、痛いなって思って…」

「んだよ、失礼だなお前。」

「だって、どうしてそんなに自分に自信が持てるかなって…」

 

 

 

私が丸井ブン太に呆れていると、彼はガムを膨らませながら雨が降り続ける空を見上げた。

 

 

 

「お前は、自信ねえわけ?」

「え、私?」

「そ、お前。自分に自信持ってねえの?」

 

 

 

頭に過ぎるのは、別れ際の彼の言葉。

『疲れる』

そう、私はきっと―――、

 

 

 

「………さあ、どうだろ。ない、んじゃないかな。」

 

 

 

視線を俯かせ、自嘲気味に笑みを浮かべる。

隣の丸井ブン太の視線が体に突き刺さって、居心地が悪かった。

 

 

 

「……そっか。」

「……うん。」

 

 

 

雨のザーザーいう音だけが耳に入る。

しばしの沈黙が私達の間に訪れた。

何か重い雰囲気になっちゃったな、とこの状況をどうすべきか必死に考えていると、

ガムを割り、丸井ブン太が突然声を上げた。

 

 

 

「よっし!」

「な、なによ!!?」

「これやるから元気出してバイト行って来い!」

 

 

 

そう言って渡された手の平のガムを見つめる。

それはたぶん今彼が食べているガムと同じ味。

初めて会ったときに貰ったのはグリーンアップル味だったけど、

今度のはものすごくイチゴの匂いが漂うストロベリーミントだった。

突然下の名前で呼ばれた事に驚いていると、彼はすくっと立ち上がり、

 

 

 

「それはケーキのお礼な。」

 

 

 

ニッと笑って「気をつけて帰れよ」と言い残してその場を去って行った。

ケーキは家まで送ってもらったそのお礼だったのに。

お礼にお礼を返されたことに少々戸惑っていると、

外の雨が徐々に落ち着いていくのが目に見えてわかった。

 

 

 

「……ずるい男だね、ブン太。」

 

 

 

雨とは逆に、なかなか治まらない鼓動。

誰にも聞こえないような小さな声で、ぼそりとそう呟いた。

 

 

 

 

 

― こんなにも忘れられないくらいに好きになってしまったのは、

     きっと、私が寂しさを感じたどんな時だって、

          貴方が一番側にいてくれたからなんじゃないかな。 ―