胡蝶蘭
俺はアンタを特別視してたわけじゃない。
ただ、どこか儚くて、寂しそうだったから。
だからちょっと気になっただけ。
「はい、これ。」
そう言って分厚い英和辞書を図書のカウンターに突き出せば、
机に突っ伏して寝ていた図書委員の彼女はのっそりと眠そうな顔を上げ、俺だとわかると鼻で笑った。
「いつのよ、これ。 随分前に返しなさいって言いに行った気がするけど?」
「さあ、覚えてねぇッス。 昨日部屋掃除したら出てきたから。 つかアンタ寝てないで仕事しろよ。」
「君に言われる筋合いはないよ。 ものすごーく暇なのよ、図書委員って。」
英和辞書を手にとって彼女は引き出しの中から俺の図書カードを探しだす。
その動作をじっと見下ろしながらカウンターにもたれるように腰掛け、ぐるりと一周館内を見渡してみたけど
どうやらこの時間帯、図書館を利用している生徒は誰一人いないようだ。
こりゃ確かに暇だ、なんてぼんやりと考えている間、彼女は俺の図書カードに返却用の判を押していた。
「でも意外、ちゃんと返しに来るんだね。 てっきりそのままかと思ってたよ切原赤也君。」
俺のカードを引き出しにしまった彼女は大きな欠伸を零しながら両腕を上げ、後ろに仰け反った。
俺はちょっとの間をあけ、「別に、気分ッスよ。」とだけ呟いて頭を掻く。
そしたら彼女もまた、「そっか。」とだけ呟いて椅子に背を預けて足を投げ出したまま天井を仰いだ。
昨日部屋の掃除をしたのは、俺の部屋に勝手に入った姉ちゃんがあまりの汚さに驚いて、その後ずっと掃除しろってうるさかったから。
確かに足の踏み場がそろそろなくなってきてやべぇなって自分でも思ってた頃だったから渋々だったけど掃除した。
するとベッドの下から見覚えの無い辞書が出てきて、それがまた学校のだって判が押してあったから返しに行くのが面倒だと思って
またベッドの下に封印しようとしたら、何故だかふと、教室に俺を呼びに来た彼女の姿が頭を過ぎった。
そういや図書委員だったっけ、とそんな事を考えながらその辞書をマジマジと見つめていると、
気が付けば今日、この時間、図書室の前に立っていた。
まあ本来は返さなきゃなんねぇもんだし、またああやって言いに来られるのも面倒だし、悪くないかなって。
そんな経緯を目の前の彼女に話せるはずもなく(話したくもねぇし。)、ただじっと窓の外を見つめていると、
ギシッと椅子の背を鳴らしながら彼女が俺の方を向いて口を開いた。
「部活行かなくていいの? 部長さん…だったよね。」
「んあ? んー…そうッスけど…ま、もう始まっちゃってるし。」
「ふーん、部長がそんなのじゃいけないんだ。 幸村君が部長だった頃とえらい違いだね。
いっつも真田副部長に怒られるーって叫んでたんじゃないの?」
「いつも叫んでないっスよ。 それに今日はちゃんと副部長の奴に遅れるって言ってあるから大丈夫なの。」
クスクス笑いながら英和辞書を持って立ち上がる彼女を目で追う。
何でアンタが知ってんだよって内心毒づきながらも、確かにそろそろ部活に行かなきゃな、と同時に思う。
でも何だかこの日当たりのいい図書館の雰囲気に溶け込んでしまって、なかなか足が動こうとしてくれない。
この空間から、まだ抜け出したくない。
だからあと少しだけここにいようと、壁に掛かった時計を見上げる。
うっし、あと五分だけ。
どうせ今の時間になって部活に行ってもあの頃と違って誰も俺に文句なんて言ってこねぇし。
先輩達が引退して、部長になった今の俺だからこそ、それが可能なんだけど。
「そういやアンタ、先輩達の引退試合来てたの?」
「ううん、行ってない。 結局テニス部の試合一つも見れないままに終わっちゃったんだよねー。 せっかくルール覚えたのに。」
「ってことは、丸井先輩の試合観た事ねぇの?」
「そだね、一回もないな。 全国大会観に行きたかったよ。」
「………ま、負けちまったけどな。」
辞書の棚に英和辞書をしまっていた彼女の顔がこちらに向く。
そうだ、俺達立海大はこの夏、全国大会決勝戦で青学に負けちまった。
関東大会には手術でいなかった幸村部長も戻って来て、今度こそみんな揃って頂点に立てるって、そう思ってたのに。
俺達は負けて、先輩達の夏は終わり、俺一人を残してみんな引退してしまった。
悔しくて、泣いて、悔しくて、泣いて。
初めはその後の部活に全く慣れなかったけど、最近はやっと慣れてきた。
時たま、体が鈍るとか何とか言っては先輩達も顔出してくれる。
だけどやっぱり、何か物足りない。
自嘲気味に笑った俺をじっと見つめ、そして彼女は笑った。
「寂しい?」
「はあ?」
「今まで一緒にいたはずのみんなが引退しちゃって、寂しいんでしょ?」
眉を跳ね上げ、素っ頓狂な声を出して聞き返す。
突然何を言い出すかと思えば…。
「そういうのってなんだか…寂しいよね。」
かたん
辞書が棚の中へと入る。
俯き加減で苦笑いを浮かべた彼女の少し伸びた髪が肩からさらりと落ちた。
その姿はちっぽけで、それでいて、儚い。
寂しいよねって俺に言ってるはずなのに、自分が寂しいって言ってるように聞こえた。
「……アンタ、」
「ん?」
「…………、」
振り向いた彼女の顔に貼り付けられたような笑みは、もうさっきみたいなものじゃない。
いつもの、ってか俺が何度か見かけたことのあるものだった。
特に何も言うことがなかったため、急に言葉に詰まって固まる。
何も言わない俺に、彼女はもう一度「ん?」と言って首を傾げた。
あー、どうしよ。 何も浮かんでこねぇ。
俺この人と特に接点があるわけでもねぇし…改めて考えると会話なんて何していいのかわかんねぇっつの。
この人っつったら丸井先輩っしょ。
丸井先輩にフラれた女。 ただそれだけ。
「……今彼氏いんの?」
あーもうバカ!!
俺何言ってんの!?
引き攣った顔のまま彼女を見れば、彼女も突然の思いがけない質問に目を丸くしていた。
まあ、そりゃそうだ。 当然の反応だな。
あーあ、完璧間違っただろ今の俺の質問…。
話繋がってねぇ上に俺がするには可笑しすぎる質問だし。
「いないよ。 ずっと。」
「……あ、そう。」
「ちょっとちょっと自分から質問しといて反応薄いよ、君。 私、ブン太に恋してから一度も作ってないんだよ? それってすごくない?」
「そうなんスか? 別にすごくはないけど。」
「あはは、そっかな。 私にしてみればすごいと思うんだけどなー。」
あ、また。 またその顔。
笑ってるのに、笑えてない。
何か、じれったい煮え切らないその表情。
俺はその顔、好きじゃない。 見てて、イライラする。
「私寂しがり屋だから、ずっと彼氏作り続けてたの。 でもブン太にフラれてからはずっと彼氏いないんだよねー。」
「…告られたりしないんスか? アンタ顔結構いいし、モテるんじゃない?」
「結構って何よ。 モテはしないけど…まあ、告られたりはするよ。 でも、いらないんだよね、彼氏。」
「はあ? 寂しがりなんでしょ? だったら強がってないでテキトーに作っとけば?」
「…………、」
何の気無しに言った俺の言葉に、少しだけ間があいて、彼女は笑った。
また俺の嫌いなあの表情をするのかと思いきや、
今度は、俺が見たことのない、ものすごく幸せそうな笑顔で
「ブン太と友達でいれることで、今は十分だから。 形だけの彼氏はいらない。」
そう言って、ほんのりと頬を赤く染めた。
とくん
波打つ何かに気づかなかったわけじゃない。
不意打ちを食らったから、ちょっと驚いただけ。
そう言い聞かせ、素っ気無く「あっそ。」と返せば、
「反応薄いってば…。 もういいもん。 君にこの話をする事自体間違ってたね。」
「……じゃねっつの。」
「ん?」
今度は拗ねたようにそう言うから、俺は無意識に思ったことを口に出してた。
だけどそれはあまりにも小さく、彼女は聞き取れなかったようで、さっきみたいにまた首を傾げて俺を見た。
なーんかイライラする。 この女。
丸井先輩にフラれたくせに、何が友達で満足?
バッカみてぇー。
ま、アンタなんかフラれた時点で相手にされてねぇけど。
それに、さっきから気になってたけど、俺は君って名前じゃねぇっつの。
「君って、誰のこと言ってんの?」
「へ?」
「俺さ、君って名前じゃねぇんだけど。 さっきから君っての、それムカつく。」
「…切原赤也君?」
「そ、赤也。 赤也でいい。」
真顔で彼女をじっと見つめていると、目をきょとんとさせた彼女は「はあ…」と力の抜けた返事をした。
そして、僅かに首を傾げてからもう一度マジマジと俺に視線を向けてきた。
あ、今絶対俺の事よくわかんない奴だって思った。
口に出さずとも顔に出てんだよ、アンタは。
「んじゃ、これからはその君ってのやめてくださいね。 何かイライラするんで。 いくら女でも俺キレちゃうッスよ。」
「……わかったよ。」
私先輩なのに、なんてブツクサ言いながら書棚の前に居た彼女はカウンターに戻ってくる。
そこで漸く思い出して時計を見上げると、自分で決めたはずのタイムリミットの五分はとっくに過ぎていた。
やべ、俺何してんだこんなところで。
「さーってそろそろ部活行こうっと。」
「…副部長さんが可哀想だよ。 マイペースだね、き…赤也君は。」
「今君って言いそうになったでしょ。」
「癖なんだよ。 仕方ないじゃん。」
そして彼女は「さっさと行ってらっしゃい。」と俺を追い払うように手を振った。
どうせならバイバイの形で手を振ってくれりゃちょっとは可愛いと思えたのに。
(ま、こんな女、どーでもいいけど。)
ドアを開け、図書室から出て行く。
そのまま後ろ手でドアを閉めようとしたら、
「赤也君。」
ふいに呼び止められて、振り返る。
「部長さん、しっかりと頑張りなよー。」
今度は左右に手を振って微笑んだ彼女に、
とくん
ちょっとだけ口元を緩めて俺は
「そりゃどーも。」
それだけを告げて部活に向かった。
- - -
雨の中、君は空を眺めてた。
頬を伝うソレが、空から落ちてきたものなのか、目から流れたものなのか、
遠くからぼんやりと眺めていた俺にはわからなかった。
「うっげ、雨降ってる……」
げんなりした顔でこの間買ったばかりの黒い傘を差す。
前の青の傘はこの間の雨の日に寝惚けてどっかやっちゃったみたいで、母さんが「また失くしたの!?」って怒りながらも半ば呆れていた。
今日は朝から天気予報で降水確率60パーセントって言ってたらしくて、家を出る前に母さんが「傘持って行きなさいよ」って新しいのを手渡してくれた。
天気予報なんて見てなかったから危うく雨に打たれてびしょびしょになるところだった。 危ねぇ危ねぇ。
せっかく綺麗に満開になってた桜も、この雨の重さは耐え切れなかったようで、地面のところどころに花弁が散っていた。
「ジロー、帰るんか?」
「あ、忍足。 う〜ん…本当は打って行こうって思ってたんだけどこの雨じゃあなぁー。」
「ま、昨日も試合やったし、たまには体休めるんもええんちゃうか? 俺は帰る気満々やで。」
「そう? じゃあ俺も帰る〜。」
「ほんま単純なやっちゃなー自分は。」
ほなな、と言って忍足は俺を追い越して正門じゃない東門の方へと歩いて行った。
俺は正門の方が家が近いから正門の方向から帰るけど、せっかく持ってきたテニス用具一式をこの雨の中持って帰るのは気が引けたから
とりあえず置いて帰れる物だけロッカーに詰めて帰ろうと、歩いていた足を部室の方へと向けた。
高校生になっても部活はテニス部。
俺はまだ準レギュだけど、跡部はやっぱり入部して即レギュラー。
中学での活躍を先輩達も知ってるし、当然と言っちゃえば当然なんだけど。
入学してまだ間もない俺達は、相も変わらないメンバーでつるむ事がまだまだ多い。
部活の形態以外はほとんどが中学の時と変わらない。
そう、何にも変わってなかったはずだった。 この時までは、何にも。
「あー、軽くなった軽くなった。 楽チン楽チ〜ン。」
荷物の半分以上を部室のロッカーに放り込んで来たため、外は雨でじとじとしてるけど気分は結構晴れていた。
両腕をグルグル回して部室を出ると、そこから見える校内で一番大きな桜の木の下に人が立っているのが目に入った。
傘も差さないで、じっと空を見上げている。
よーく目を凝らして見て見ると、どうやらその人物はスカートを履いていて、女子生徒なんだということがわかった。
(何してんだろ。 風邪引きたいのかな。)
じっと空を睨むように見つめている彼女は、ぎゅっとスカートの裾を握り締めて唇を噛み締めていた。
潤んだ瞳。 虚ろな鋭い視線。 降り注ぐ雨と花弁。
「変な、女……」
この雨の中、傘も差さないで空をずっと睨み続けてる。
そんなに雨が降った事が悔しかったのか、それとも何か思いに耽る事があったのか。
彼女と何の接点もない俺には何にもわからなかったけど、ふと、その顔に見覚えがあるような気がして歩き出そうとした足を再び止めた。
記憶の底を辿れば、思い出せそうな彼女の横顔。
ほんのちょっと見たことがあるかな程度のそんな存在。
必死に頭の中を探ってみたけど、結局ちっとも思い出せなくて諦めかけたその時だった。
「…あ、」
彼女の唇が小さく震えるように動いて、何かをぽつりと呟いた。
そして両手で顔を覆い、その場に蹲るようにしゃがみ込んで、泣いた。
肩を上下に揺らし、ここからじゃ聞こえないけど嗚咽を漏らしているのがわかる。
俺が彼女に声を掛けたのは、その数分後。
じっと見つめていただけなのに、気が付けば俯いてしゃがみ込む彼女のまん前に立って彼女を見下ろしていた。
濡れて小さな肩にへばり付いている彼女の服を見て、俺も知らないうちに傘を差していないことに気が付いた。
やべぇ、また怒られちゃう。
「ねえ君、風邪引くよ。」
彼女から返事なんてない。
降り注ぐ雨が俺の声を掻き消したのかななんて考えてみたけど、きっと彼女は聞こえてたって返事をしてくれそうにない。
彼女は確かに今俺の目の前に存在しているのに、彼女の心はここにはなく、どこか別の時間で止まっているように思えた。
「…っ、しいよ…っ、んで、」
「…………?」
顔を覆って泣きじゃくる彼女の口から嗚咽と混じった声が漏れる。
でも小さくて、何を言っているのか聞き取る事はできなかった。
彼女が何故泣いているのかどころか、どこの誰かもわからない俺はどうしてやることも出来ない。
そんな彼女をただ見ていることしか出来なくて、声をかけてやることすら出来なかった。 だけど。
「……っブン太ぁあ!!」
突然はっきりと聞こえた言葉に俺の体がピクリと反応する。
ぶんた? ブン太?
丸井、ブン太?
(まっさか〜…、)
その後彼女はさらに激しく泣き出して、それ以降言葉らしい言葉を口にする事はなかった。
だけど、はっきり聞こえた“ブン太”って言葉に覚えがある俺は、
彼女が発した言葉が本当に“ブン太”であったのか知りたくて、その場を離れることができなかった。
何でかドキドキ高鳴る心臓の音が雨の音を掻き消した。
「……ブン太、って、言ったの?」
「っ、!!」
弾かれたように顔を上げた彼女の泣き腫らした顔が俺を見上げる。
クリクリと大きな目が涙で揺れて、驚きの色が見え隠れする。
不謹慎にも、ちょと可愛いなって思った。
俺の知っている“ブン太”は、あの立海の丸井君でしかなくて。
ブン太って名前が珍しいからって言っても彼女が口にした“ブン太”が俺の憧れの丸井君であるという確証はない。
それよりも名前だったのかすら微妙なところ。
むしろその確率の方が低そうだ。
でも、それでも ……
その名前を口にした途端肩を揺らした彼女を見れば、泣いてる原因がその“ブン太”にあるんだって事はバカな俺でもわかる。
原因でなくても、彼女が今泣いている事に関係してるんだって、そういうことだろ。
俺はそっとしゃがみ込んで彼女と同じ高さで目を合わせた。
そして、そこでやっと俺の頭の中で一本の糸が繋がった。
「…君、やっぱり見たことある。」
「……………、」
「丸井君と、一緒にいた子だよね?」
――― 今はコイツいるからまた今度な。
たしか、去年のクリスマスだったっけ?
テニス部も引退して、やる事がなくて街をぶらぶらしてたら人込みの中、赤い髪が目に入った。
丸井君を見つけたことが嬉しくて、勢いで声をかけたら隣に女の子が居る事に気づかなくて
はしゃぐ俺に丸井君がそう言ったのをはっきりと覚えてる。
丸井君がぽんぽんと隣に居る女の子の頭を叩いてすごく優しそうな顔をした。
だから俺は彼女とのデート中だったんだと思ってちょっと恥ずかしくなった。
その時見えた笑顔の彼女の姿が、今の彼女と重なって見えた。
「…ッ、わったし…、」
大きな瞳からぽろぽろ落ちる涙が胸を締め付ける。
何で泣いてるの?
何で、
「…君のことなんて、知ら、ない…」
「うん、だろうね。 俺だって今思い出したくらいだし。 てか覚えてた事自体が奇跡だし。」
「…誰?」
誰、と彼女は聞いた。
俺を誰だって聞いた。
俺は中学時代、君が泣いている何かしらの原因の丸井君に憧れてました。
そう言って彼女は俺を受け入れてくれるのだろうか。
君はあの日、俺の記憶の中で丸井君と歩いていた彼女だったのなら、
君がさっき口にした“ブン太”ってのはやっぱり丸井君なんだろ?
泣きながら丸井君の名を呼ぶくらいなんだから、何かあったんだろ?
「……俺、芥川慈郎。 ねえ、君の名前教えて。」
「…な、まえ?」
「そう、名前。 俺はちゃんと教えたよ。 ジローって呼んでくれていいから。」
「ジロー…?」
「うん、俺ジロー。」
「ジロ…くん?」
「う〜ん、くん付けはヤダなー。」
「…じゃあ、ジロちゃん。 私は、。」
「?」
「うん、。」
雨のせいで額にへばり付いた髪を掻き分けながら彼女、は泣き腫らした顔で力尽きた笑みを浮かべた。
果たして、あえてはぐらかした質問に彼女は気づいているのか。
俺が誰かなんて、順を追って後から話せばいい。
今はただ、彼女が何故泣いているのか、その理由を知りたかった。
「…、丸井君と何があったの?」
「……っ!」
丸井君の名を出せばパッと表情を強張らせる。
きつく結われた口元が小刻みに震えている。
「辛い事は抱え込まないで全部吐き出しちゃった方がいいんだよ。
苦しくて、辛くて、どうしようもない気持ち、全部この雨に流しちゃえ。」
「………あめ、に?」
「うん雨に。 雨がこの悲しい気持ちを全部綺麗に流してくれるはずだから。
そしたらきっと、明日晴れた空を見て、ちょっとは胸の中がすっきりするよ。」
「…………、」
「だからさ、明日になったら……笑ってくれない?」
あの日みたいに。
幸せそうに、笑ってよ。
「……全部、話したら…忘れられるかな。 何にも無かった事に、できるかな…?」
ぽつり
薄く開かれた口から零れた言葉。
何かを訴えるように見つめてくる大きな潤んだ瞳。
そこには確かに雨に濡れた俺が映っているのに、その奥は何も映してなくて。
目の前の彼女は目の前の俺の姿を、見ていない。
目の前の俺すら見えていない。
「忘れられるよ。 …忘れてもいい。 でも、約束して。」
「……、? 約束?」
「忘れてもいい。 それで君に笑顔が戻るのなら、今は現実から逃げてもいいから…」
虚ろな瞳の彼女に向かってそっと小指を出して
「いつかは必ず向き合うって約束しよう。」
雨が降り、花弁が散る桜の木の下、俺と彼女はひとつの約束を交わした。
― 今はまだ、逃げてもいいよって。
逃げてばかりじゃダメだってわかってるけど、
俺はただ、あの日見た君の笑顔を取り戻してやりたかったんだ。 ―