胡蝶蘭

 

 

 

 

 

受け止め切れなかった運命を、俺は逃げる事でアイツを守ろうとした。

でもそれは結局、ただの綺麗事。

俺は、自分を守るためにアイツを傷つけた。

こっちが本当の真実、なのかもしれない。

 

なあ、あの時のお前の表情、今でも忘れらんねぇよ、バカ。

 

 

 

 

 

『わああああああああああああああああん』

 

 

 

耳に焼き付いて離れない、泣き声。

泣いてたんだ、女の子が。

大きな口を開けて、ずっと泣いていた。

 

 

 

『大丈夫だから、大丈夫だからね。』

 

 

 

若い女の人が必死であやすけど女の子は泣き止まない。

俺はそんな光景を、何とも言えない表情でただぼんやりと眺めてた。

頭の中は真っ白で、椅子に座っているだけでやっとだったから。

この時きっと、俺の顔は血の気が引いて真っ青になっていたに違いない。

そんな俺の前に、一人の男の人が現れて忌々しげな瞳で俺を見下ろした。

 

 

 

『君が…』

 

 

 

何を言おうとしたのか、言葉を途中で止めてまた口を閉じた。

ただ、鋭い瞳だけが俺の頭の天辺からつま先までを刺すように見つめる。

 

 

 

『……ごめんなさい、』

 

 

 

やっと口をついて出てきた言葉は、たったこれだけだった。

もう何時間も声を発する事のなかった喉はカラカラで、絞り出した俺の声は小さく小刻みに震えていた。

握り締めたサッカーボールに付いた赤い跡を見るのが嫌で、俯いていた顔を上げる。

涙で溢れた視界に映ったのは、泣き出しそうな歪んだ表情を貼り付けた男の人だった。

擦り剥いて血が出ている膝が、ヒリヒリと焼けるように痛い。

 

 

 

『ごめんな、さいっ……』

 

 

 

この言葉を口にすることだけが、あの時の俺にとっての精一杯だった。

怖くて、ただ、消え去ってしまいたかった。

女の子の泣き声は、まだ止む事はない。

 

 

 

 

 

「空、曇ってきたな。」

 

 

 

ジャッカルがポツリと呟く。

言われて空を見上げると、確かに雲行きが怪しくなってきていた。

あーあ、こりゃ一雨くるかもしれねぇな。

さっき幸村君の怒りに触れたからだ、なんてちょっと思ってみる。

ま、いくらなんでもそりゃありえねぇけど。 神の子と呼ばれようとも、幸村君だって普通の人間だ。

 

 

 

「なあブン太、」

「おっと、もうあの話は止せよ。わかってんだろぃ。」

「俺は納得いかねぇよ、やっぱ。全てを知ってる以上黙ってるわけにはいかねぇよ。」

「ジャッカル、あのなぁ…」

「俺はお前にもにも昔みたいに笑ってほし」

「ジャッカル!!」

 

 

 

俺の剣幕にジャッカルが目を見開く。

掴みあげた胸倉を放すと、ジャッカルは小さく「何でだよ…」と不満を口にした。

 

 

 

「何で、なんて質問は野暮だろぃ。お願いだから、もう口挟むな。」

「………ブン太、」

「俺はもうアイツに何もしてやれねぇし、出来る事なら近付きたくねぇんだよ。」

 

 

 

まだ、苦しいんだ。

まだ、ダメだから。

だってそれは、忘れることができそうにない、過去だから。

いや、一生忘れることが許されない、そんな過去だから。

 

 

 

「帰るぞ、ジャッカル。何か奢れよな。」

「何でだよ、俺今月もう底尽きてんだよバカ。」

「……コンビニの肉まんでいい。」

「いや、だから話聞けよ………一個だけだからな。」

 

 

 

奢ってくれるのかよ。 そりゃまあ有り難ぇけどよ。

財布の中大丈夫なんかな、自分の分はなくても俺の買うくらいはあるんだよな?

なんてあんましジャッカルの財布の中身の心配はせずに、

コンビニの肉まんとピザまんとあんまんとカレーまんを買ってもらう事ばかりを考えながら、

まだ試合しているコートに背を向け、俺とジャッカルは幸村君の命令により、一足先に氷帝学園を去ることにした。

 

 

 

ふと、どこかに保健室があるだろう校舎を振り返り、

まだ何も知らなかったあの頃のアイツの笑顔を思い浮かべ、自嘲気味に笑った。

 

 

 

 

 

- - -

 

 

 

 

 

「なあ、付き合わねぇ?」

 

 

 

足を止める。

男から告白かよ、と思いながら顔だけでも見てやろうと声がした教室をこっそりと覗き込む。

見覚えのある後姿に驚いて、ちょっとだけ息を止めた。

 

 

 

「ごめんね。私忘れられない人がいるから…」

「何それ、あの野球部の?」

「ううん、違うよ。とにかく、私は好きな人がいるままじゃ他の人とは付き合えないの。」

「………へえ、お前変わったな。」

 

 

 

男の正体は俺と同じクラスの渡瀬だった。

結構良い奴だし、顔もまあまあイケてる方だと俺は思う。

ただちょっとだけクセがある奴だから女の入れ代わりは激しい方だ。

そんな奴がフラれる場面に出くわした俺って一体何なんだろうなってちょっとだけ思った。 ラッキーってわけでもねぇし。

 

 

 

「寂しがりでずっと男掴まえてたのに、大丈夫なのかよ。一人だろ、ずっと。」

「…うん、大丈夫。心配はいらないよ。」

「……誰なわけ?」

「え?」

「その忘れられない人っての、誰?」

 

 

 

気に入らないって表情をモロ顔に貼り付けて渡瀬は髪を掻き上げた。

それに相手は少しの間を置いて「言えない」とだけ呟く。

へえ、言えないんだ。

一瞬、期待した自分に気づかないフリをした。

 

 

 

「なあ、やっぱり俺と付き合えないの?どうせ叶わない恋なんだろ?」

「………、」

「失恋には新しい恋をって言うじゃん。いつまでも引きずってたってしょうがねぇじゃん。」

「うん、それはわかってるんだけど…」

「わかってんだったらさーいいじゃん付き合おうぜ。絶対どうでもよくなるって、な?」

 

 

 

渡瀬が相手に近付いて頬にそっと触れる。

やべぇな、きっとこれは見ちゃいけないんだろうけど…。

 

 

 

「まだ残ってる奴いたのかよ。」

「っ、んだよ、丸井か…ビックリしたじゃん。何、忘れ物?」

「そ、忘れモン。」

 

 

 

空気読めよって表情をした渡瀬と目が合う。

だけど俺は気にする素振りも見せずに自分の机の上に置きっぱなしになっていた携帯を指差しながら軽い足取りで自分の席まで向かう。

でも実際はその一歩一歩を踏み出すのにすごくドキドキしていて、

未だ振り向く事のない後姿が近付く度にその胸の高鳴りは治まらない。

振り向かないんじゃない。 振り向けないんだ。

この後姿の相手はきっと、声だけで俺だってわかっているはずだから。

 

 

 

「ビンゴ、」

「……あ、」

 

 

 

ビクって揺れる肩と戸惑いを見せるその表情。

そして気まずそうに視線を逸らすの顔を覗き込んで、俺は精一杯の笑顔を貼り付けた。

渡瀬が「何だよ丸井、」と言って俺の肩に手を乗せて来たから、今度はそっちへ振り返る。

 

 

 

「別に何もねぇよ。」

 

 

 

嘘。

ちょっと気になった。 いや、かなり。

何ヶ月も前の話だけど、確かに自分の事を好きだと言った奴が告られてたらそりゃ気になるもんだろぃ。

でも「こいつ俺の事好きなんだぜ」とか、今でも好きかわかんねぇし言えるわけない。

ていうか、言ってどうするって話だ。 こいつの言う忘れられない人が俺かどうか確信なんてこれっぽっちもねぇし。

あの日、をフッたのは俺。 俺は女よりもテニスを取った。

だからこのモヤモヤする嫉妬にも似た感情は、お庭違いでしかない。

 

 

 

「さーて、邪魔者は携帯持ってさっさとお暇(いとま)してやりますか。」

「あーそうしてくれ。ってか教室入って来る時に空気読めよなバカ。」

「……わり、じゃあなー。」

「っ待って、ブ……丸井君!」

 

 

 

あえてテンション高めに机の上に置きっぱなしの携帯を掴んで二人に背を向けると、

わざわざ俺の名前を言いなおしたが俺の服の裾を握った。

何で言いなおすんだよって思ったけど、とりあえず今は「何?」と聞き返すだけにしておいた。

でも結構顔に出てたんだと思う。

俺の顔見るなりが気まずそうに視線を俯かせて裾を握る手に力を込めたのが服越しに伝わってきた。

 

 

 

「……えっと…その…」

「?、何だよ、」

「……やっぱ、何もない…です。」

 

 

 

顔を上げたは無理に笑顔を貼り付けて笑った。

パッと放した俺の服の裾には皺が出来ていて、どれだけ強く握ってたんかなってふと思う。

そんな服の裾をじっと見つめていたら、は黙ったままだった渡瀬に向き直った。

 

 

 

「ごめん、今日はもう帰るね。」

 

 

 

それだけを言うと、足元にあった鞄を持って俺の隣を通り過ぎていく。

そん時、はギュッと目を閉じていたように見えた。

一瞬俺の心臓がビクッと跳ね上がって、そしてすぐに静まった。

 

 

 

「ちょっ、!」

「……俺も帰ろーっと。」

 

 

 

ハッと我に返って追いかけようとした渡瀬の行く手を阻むように俺も背を向けてドアに向かって歩き出す。

ドアに手をかけ、足を止めた渡瀬に振り返って

 

 

 

「じゃあまた明日。」

 

 

 

そう言ってドアを閉めた。

アイツを追いかけるのは、渡瀬ではなく俺でありたかったから。

今は俺がアイツの手を取って、話を聞かなくちゃいけないような気がして。

それが、俺の役目のような気がして。

 

 

 

って足遅ぇのな。」

「!」

 

 

 

腕を掴んだ瞬間、バッと振り払われた手をプラプラ振ってポケットにしまう。

驚きを隠すことなく目を見開いて俺を見上げるの表情はまるで予想外だとでも言いたそうだった。

にとって、俺が追いかけてきたのってそんなに意外だったんかな。

ま、俺も渡瀬が追いかけようとしなかったらあのまま一緒になっての背中を見送ってただろうけど。

 

 

 

「…何で、ついて来たの?」

「別に、さっき言いかけたのが気になったから。あんな言い方されたら気になんだろぃ。」

「……そっか、でも別に…ホントに何にもなかったんだよ。」

「はあ?何だよそれ…」

「君とね、あの場から逃げ出したかったの。でも、何にも浮かんでこなかった、それだけ。」

 

 

 

ああ、あの笑みは……諦めの笑みだったのか。

わかった途端、気づいてやれなかった自分を少しだけ責める気持ちが湧いた。

 

 

 

「…今から帰んの?」

「?、うん、帰るけど?」

「今日バイト?」

「ううん、今日はお休み。」

「じゃあ一緒に帰ろうぜ。」

「え?」

 

 

 

突然の俺のお誘いに、の丸い目がさらに丸々と大きく見開かれた。

そこまで驚いた顔されると、誘ったこっちもちょっとだけ気恥ずかしくなってくる。

ただ普段友達と帰るみたいな、そんな軽い気持ちで誘っただけなのに。

俺が誘うのが意外だったのか、は少しだけうろたえてから小さく頷いて「うん帰ろ。」と笑った。

 

 

 

 

 

- - -

 

 

 

 

 

魂が抜けきった女が、目の前にいた。

その女が見ているモノは、俺でもなく、今でもなく、

ただの過去だった。

 

 

 

「おい、俺を見ろ。」

 

 

 

何度声をかけても、女は力なく笑う。

いや、笑ってなんてない。 笑ったつもりでいるだけだ。

笑えてなんて、これっぽっちもなかった。

その都度、イライラが募る。

 

 

 

「何で俺様がお前のような女の面倒を任されなきゃなんねぇんだよ。」

 

 

 

中等部の頃、世話になった監督の頼みとなると俺は断れなかった。

だけど、正直この女の世話は途轍もなく面倒な事に違いない。

今を見ていない、後ろばかり振り返っている女。

俺は、嫌いだ。

 

 

 

「……ごめんね。」

 

 

 

初めて聞いた言葉はこれだった。

ぽつり。

あまりにも小さくて消えてしまいそうな声だったから、危うく聞き逃してしまうところだった。

ハッとして顔を上げると、女は目尻いっぱいに涙を溜めて、

 

 

 

「でも、もう一人は嫌なのっ……!!」

 

 

 

そう言って頭を抱えて蹲った。

小さく小刻みに震える身体。

女ってこんなにちっぽけだったか、なんて疑問が俺の中に浮かぶ。

いや、きっとそれはこの女だけだろう。

 

この女が過去に何を背負ったのかなんて、俺は知らない。

でも、過去に縛られたまま生きていくその姿は、至極最高に見っとも無い。

せっかくの人生を、生れ落ちてきた奇跡を無駄にするのは、気に食わない。

 

 

 

「おい、顔を上げろ。」

 

 

 

女は左右に首を振って顔を上げようとしない。

泣き顔を見られたくないのか、それとも俺の機嫌がすこぶる悪い事に気が付いているからなのか。

 

 

 

「顔を上げろって言ってんだろうが!」

 

 

 

少し力任せに前髪を掴んで顔を上げさせる。

痛かったのか、顔を歪めて女は無理矢理顔を上げた。

衝撃でぽろぽろと落ちる涙を片方の手で拭ってやると、女の肩が小さく飛び跳ねた。

 

 

 

「お前、一人が嫌なんだろ。」

 

 

 

俺の質問に、瞑っていた女の目が薄く開く。

視点の合っていない目が俺の目の奥を覗き込む。

 

 

 

「だったら俺様がお前の傍にいてやるよ。」

 

 

 

俺の突然の言葉に、女は驚いた表情を浮かべた。

前髪を掴んでいた手を放し、そっと女の頬へと移動させる。

柔らかい、女独特の感触をした肌に手を滑らせながら、壊れ物を扱うように一撫で。

 

 

 

「ただし、お前がちゃんと笑えるようになるまで、それが条件だ。」

 

 

 

それが、俺とお前が初めて交わした、約束だった。

 

 

 

 

 

- - -

 

 

 

 

 

「失礼します。」

 

 

 

二三回ドアが鳴って、俺の返事無しに開く。

そこから顔を出したのは、

 

 

 

先輩に会いに来ました。」

 

 

 

立海のジャージを身に纏った、切原赤也だった。

切原はそれだけ言うと、が眠るベッドの脇まで歩いてきて、を見下ろす。

その表情はどこか、切なげだった。

 

 

 

「大丈夫だ、心配ない。寝てるだけだ。」

「……そッスか。」

「試合は?」

「俺、今これなんで。」

 

 

 

そう言って指差したのは、自分の足。

テーピングでぐるぐる巻きにされたその足は、どう見ても怪我をしているそれにしか見えなかった。

 

 

 

「ヘマしたな。立海のエースが聞いて呆れるぜ。」

「俺ここんとこずっと補欠ッスよ。だから今日もコート脇で筋トレしかしてないっス。」

「レギュラー外されなかっただけ奇跡だな。」

「部長は何だかんだ言って、優しいんで。怪我してようが負けなければ出してくれますよ。」

 

 

 

それにこの怪我大した事ないし、と言いながら俺の隣に簡易椅子を引っ張り出して来て、そこに座る。

 

 

 

「ねえ、跡部サンって先輩の彼氏?」

「…まあな。」

 

 

 

「ふーん」と意味深に返事を返して切原はじっとの寝顔を見つめながら、口を閉ざした。

その横顔を盗み見て、俺は逆に立ち上がった。

 

 

 

「丸井は、に何をした。」

 

 

 

俺は知らない。 何も聞かされていない。

 

切原は驚いたように目を見開いて俺を見上げた。

視線がかち合うと、数回瞬きを繰り返して切原はフッと視線を逸らした。

 

 

 

「フッただけッスよ。滅茶苦茶に。」

 

 

 

自嘲気味に、だけどどこか怒気を含んだ声色。

笑おうとして、失敗した表情が、俯く。

小刻みに震えている切原の手がそっとの頬へと伸びて、優しく撫でる。

その手付きは壊れ物を扱うように、まるで愛しいと言っているようなものだった。

 

 

 

「だからやめとけって言ったのに。ほんとバカな女。」

 

 

 

一瞬だけ歪んだ表情を見逃すことは簡単だったのに、俺はそんな切原の苦痛に歪んだ表情を目の当たりにした。

この二人の間にも、何かあったんだろう。

切原はから手を放すと、俺とに背を向けて言った。

 

 

 

「俺、先輩にフラれた男だから。いつかアンタもそうなるよ、絶対に。」

 

 

 

肩越しに見える横顔。

強い眼差しに、返す言葉が見つからなかった。

 

 

 

「丸井ブン太が存在する限り、絶対にね。」

 

 

 

フッと口元に笑みを浮かべて切原は保健室を静かに出て行く。

無音になった部屋がやけに重々しくて、俺は再び椅子に腰を下ろす。

いまだ眠り続けるの目尻から、一筋の涙が伝った。

そして呟く言葉は、

 

 

 

「…ぶん……た…」

 

 

 

その名前が重く胸に圧し掛かる。

ああ、なんて現実は残酷なんだろう。

 

 

コイツの笑顔を奪ったアイツが、なおもまだコイツの胸の中を支配していた。

 

 

 

 

 

― 時が経てば癒えると思っていた。

     いつか俺の名前を呼んで綺麗な笑顔で笑ってくれる日が来るって、

          そんな事、ありえないって心のどこかで諦めていたのも事実だったんだ。 ―