お帰りなさい
真っ赤な世界。
手の平に掴んでいたものは力なく地面へと崩れ去り。
いつの間にか私は一人になっていた。
不気味なほど綺麗な月が私とあの人を照らす。
浴びた血を手の甲で拭い、ぺろりと舌を出して唇に潤いを与える。
その仕草は妙に綺麗で恐ろしい。
私はこの時、残酷な世界の中心にいたはずなのに。
それなのに感動にも似た衝撃を味わって、あの人から目が逸らせなくなっていた。
そう、私はあの日、鬼を見た。
その鬼は妖艶な笑みを浮かべて私に手を差し出すこともなく言った。
『俺について来い。』
と。
たった一言。
それだけで私に背を向け歩き出した。
「晋助様。」
煙管を片手に持って月を見上げている男の背に声をかける。
絶対に聞こえているはずなのに、こちらへ振り向くこともしない。
だけど今その背を刀で切りつけようとしても、彼は意図も簡単に返り討ちにしてしまうのだろう。
彼に隙なんて、ありはしない。
「返事してよ。呼んだのはアンタの方だよ。」
「。」
「?」
「こっちに来い。」
煙管を吹かす晋助様の隣に言われた通り並ぶ。
左目は包帯で巻かれているためわからないが、やはり視線は未だ丸々とした月に向けられているのだろう。
「今すぐ荷物纏めて出てけ。」
「…は?」
今、このお方は何と仰った?出て行け?私が?
思わず耳を疑って、聞き返す。見開いた目は、元に戻ってはくれない。
晋助様に仕えてもう数年。ずっと近くで彼のことを見てきた。
近付こうとしたのなら、すぐにその距離を空けてしまう晋助様にいつもついて行こうと必死になって後を追ってきた。
手を伸ばしても届かない、もどかしい距離。
でも、わかっていたんだ私は。
私と晋助様はずっと、ある一定の距離を保ってきていたこと。
どんなに必死になっても私が追いつけない時は、彼は振り返ることなく少しだけ立ち止まって待っていてくれていたことを。
早く来い、彼の広い背がそう言っているようで。
だけどある一定の距離まで来ればまた彼は歩き出す。
これ以上はここへ入ってくるな、そんな声が聞こえた気がしたんだ。
「時期に、ここは騒がしくなる。」
「…だからってどうして私が出て行かなきゃなんないの?」
「お前は邪魔だ。必要がねぇ。」
「………」
冷たい。まるで鋭利な刃物で刺されたような感覚が全身を駆け巡った。
突き放された。晋助様は今、私に解雇を命じられたのだ。
晋助様に仕える者として必要がないと言われちゃあそこまでだ。私はもともと戦には向いていない。
「じゃあ出て行きます。今までありがとうございました。」
「くくっ、えらく棒読みだな。まったく感謝が伝わってこねぇじゃねぇか。」
「だって本心じゃないもの。」
「じゃあ言うな。」
ここで漸く晋助様がこちらを向く。
と言ってもまだ顔だけだ。
見えた右目が私を捉えて少しだけ細くなった気がした。
どきん、と緊張が走る。いつになってもこの目に見られることには慣れない。
全身が麻痺したように動かなくなる。別に怖いんじゃない。ただ、支配された。そんな感じ。
「もっと傍にいたかった。」
「そうかィ。そらァ残念だったな。」
「うん、今ものすごく辛い。」
「………」
晋助様の口元の笑みが消える。
射抜かれるような視線が再び月へと戻された時、全身を解放されたような感覚を覚えた。
彼の視線は呪縛そのものだ。私を縛って放さない。
『俺について来い。』
ふと、あの日晋助様が言った台詞が頭の中に浮かんだ。
―― 世は戦に明け暮れる日々。
私と母は戦に巻き込まれた家を死に物狂いで抜け出した。
小奇麗な着物は薄汚れ、乱れた髪も結いなおす時間さえ惜しい。
そんな私は同じような姿の母に連れられ、彷徨うように歩き続けていた。
逃げるように、遠くへ。いっぱい逃げたと思っても、それよりもさらに遠くへ。
限界だった。足はパンパンで、喉もカラカラで。
目の前に立ちはだかった狂気に満ちた武士らしき男を見ても、どうすることもできないくらい。
私の手を引いていた母が崩れ落ちる。
泣き叫ぶ私を見てもなお、男は私へと刀を振り翳す。
衝撃は、なかった。
―― 代わりに目の前には鬼がいた。
地面には先ほどの男が突っ伏している。
たぶん二度と起き上がることはないだろう。
不気味なほど綺麗な月が私と鬼を照らす。
浴びた血を手の甲で拭い、ぺろりと舌を出して唇に潤いを与える。
その仕草は妙に綺麗で恐ろしい。
私はこの時、残酷な世界の中心にいたはずなのに。
それなのに感動にも似た衝撃を味わって、鬼から目が逸らせなくなっていた。
そう、私はあの日、鬼を見た。
その鬼は妖艶な笑みを浮かべて私に手を差し出すこともなく言ったのだ。
『俺について来い。』
「お別れだね、晋助様。」
命の恩人に忠誠を誓った。
あの日から私は晋助様に仕える身。
その晋助様が出て行けというのだ。出て行くしかない。
だって私は大して役に立たない。結局今の今まで剣術だって上達しなかった。
戦場で私はこれっぽっちも使い物にならないだろう。いわゆる戦力外通告だ。
「また会える?」
「お前が生きてたらな。」
「それじゃ会えないよ。晋助様も生きてなきゃ。」
「…約束はしねぇ。さっさと行け。」
最後の最後まで冷たいなぁ、なんて笑えてきちゃうのはきっとこの人の優しさを私は知っているからだろうか。
今回の戦。これ以上は踏み込んではいけないんだ私は。
生きなきゃいけないから。
生かされている命だから。
誰に?そんなの決まっている。
目の前の鬼に、だ。
「一つだけ聞きたいことがあるの。」
「………」
「どうしてあの時私を拾ったの?」
放っておけばよかった。
傍に置くには力不足で、役立たず。
女としての機能はあるが、本当にそれだけなのだ。
そんな私をあの日、鬼は手も差し出すことなく拾ってくれた。
彼が背を向け歩き出したのは、私が自分の意思でついて行くかを決めるためだ。
もちろん、私にはもう目の前の鬼に縋るしか道はなかったのだけれど。
「ねえ、どうして晋助。」
床の最中でしか呼ばない名前。きっともう呼ぶことはない。
晋助様は何も言わずにずっと月を見上げていたが、ふいに身体ごとこちらに向いた。
開いた胸元が、妙に色っぽい。
「ただの気まぐれだ。」
気まぐれで拾ったモノを、彼は気まぐれに捨ててしまう。
でもその気まぐれはどちらも、私の命を助けるため。
聞かないのは、確信がないから。もしかしたら私の自惚れかもしれない。
「それじゃ、先に江戸で待ってます。」
帰ってきて。
いつか来る未来。
全てが終われば戻ってきてよ。
小さな家で温かいご飯を作ってアンタの居場所を作っていつまでも待っているから。
「お元気で。」
背を向けた。
呼ばれる名前。
煙管の独特な匂い。
「お前の居場所は最後まで鬼兵隊にはなれなかったな。」
普通の家庭に育って。
普通に親から温かな愛情を受けて。
普通に女の子としてのびのびと暮らしていた私。
戦に巻き込まれたただの一市民。
だから生々しい赤。
鋭く尖った刃なんて似合わない。
当たり前だけどそんな私は、晋助様を居場所にはできなかった。
「世界が、違いすぎたんだよ。」
視界が歪んで反転する世界に、晋助様を捉える。
降って来る温かな感触に目を閉じ、最後の抱擁を噛み締めるように感じてた。
きっとこの先、彼に会うことはもうないんだろう。それは、わかっていた。
「お別れだ、。」
その言葉を合図に、今度こそ彼に背を向け歩き出す。
なんてことない。私は自分の世界に帰るだけ。
晋助様の世界は、私の世界とは随分違いすぎていた。
ギシ、船の床が軋む。
「オイ」
ここからじゃもう姿は見えない。
けれども聞こえる女の子の声。
ギシ、それでも歩みを止めずに前だけを向く。
「お前この船の船員アルカ?」
ねぇ、晋助。
一つだけ聞きたいことがあるの。
―― どうしてあの時私を拾ったの?
その答え、私知ってるよ。
教えてくれはしなかったけれど、私は自分で気づいてしまったの。
求め合ううちに、アンタが気づかずとも私は自然とその答えに気づいてしまった。
ねえ晋助。アンタはずっとさ、
いつか戻れる居場所がほしかったんだよね。
血も涙も何もない、そんな私の元へ。
いつかは戻りたいんだよね、きっと。
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2009.10.19 執筆
(そんな叶わぬ想いを抱き鬼は戦い続けるのだろうか。)